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4月, 2022の投稿を表示しています

傲慢のプライド

デルフィニウムの花言葉は傲慢 荒川弘さんの『鋼の錬金術師』、好きなテレビアニメだ。 ゲーテの「ファウスト」第二部に出てくるガラスの中の小人として、ヨーロッパでは、錬金術で人工的に創らた人間をホムンクルスと呼ぶ。 このアニメのガラスの中の小人、ホムンクルスは、国王を騙してガラスの代わりに人間の器を得た後、自分の感情を切り離し、真理の扉を開け、神を吸収し「完全な存在」になりたかった。 ホムンクルスは神になるために自分の感情、「傲慢」「色欲」「強欲」「怠惰」「嫉妬」「暴食」「憤怒」を切り離し、それぞれ人工的に生命体、ホムンクルスを創った。 その創ったホムンクルスたちに、お父様と呼ばせていた。 傲慢のプライド 最初に創られのは、「傲慢のプライド」だ。 一番先に創られたので、「はじまりのホムンクルス」と名乗る。傲慢の権化、お父様に似ていると言われている。 身体が子供だが、情け容赦なく弟たちを駒のように使い、弟たちから恐れられていて、目的達成のためには手段を選ばない。 プライドは影を操る。影で自由を奪い、意識すら乗っ取ることができる。 また、薄く伸ばした影で斬りつけ、無数の口で捕食する。 ホムンクルスを取り込む能力があるため、大きく能力ある弟たちを指揮、監視している。 そして、お父様には忠実で命を捨てることができる。 また、人間的な感情がないホムンクルスであるにも関わらず、 人間である養母を気に入っている。 プライドの最後は、ボロボロになった器の子供の身体を捨て、鋼の錬金術師の身体を乗っ取ろうとするが、かなわず、本当の本体、胎児となり、再び、養母に育てられる。 唯一生き延びたホムンクルスだ。 傲慢 傲慢は、影を支配する。光があれば、必ず影がある。 実体ではないものを、実体以上と錯覚するのも慢の心だ。 最古の字書の説文解字によると、「一に曰く、慢(あなど)りて畏れざるなり」 畏れざる心が当たり前となると、そこから離れることは難しいと思う。 術野を確保するのなら、無影灯。多方向から強い光をあてて影を消していく。 慢心は、多方向から間違いに光をあてて正せれば、消せるのか? 自分が正しいと慢心し、畏れていないのに、 間違っているなんて、気づかず、思ってもいないのに、どうやって。 慢心の去り方を維摩会 春秋館での御指導を賜りたく存じます。  

嫉妬のエンヴィー

黄色いバラの花言葉は嫉妬 荒川弘さんの『鋼の錬金術師』、好きなテレビアニメだ。 ゲーテの「ファウスト」第二部に出てくるガラスの中の小人として、ヨーロッパでは、錬金術で人工的に創らた人間をホムンクルスと呼ぶ。 このアニメのガラスの中の小人、ホムンクルスは、国王を騙してガラスの代わりに人間の器を得た後、自分の感情を切り離し、真理の扉を開け、神を吸収し「完全な存在」になりたかった。 ホムンクルスは神になるために自分の感情、「傲慢」「色欲」「強欲」「怠惰」「嫉妬」「暴食」「憤怒」を切り離し、それぞれ人工的に生命体、ホムンクルスを創った。 その創ったホムンクルスたちに、お父様と呼ばせていた。 その内の一体が「嫉妬のエンヴィー」だ。 エンヴィーの役割は、お父様の計画、国中の人の命を利用して、国土を錬成陣として使う国家錬金術で真理の扉をあけて「完全な存在」になること、その計画を邪魔をするものを排除することだ。 エンヴィーの能力は、変幻自在、何にでも自分の身体を変えられる。 敵地に入っては、中の人物になりすまし、欺いて情報を引き出す。 そのお父様の計画を知った将校を殺害する時、彼の愛する妻に化けて、どうにもできない状態に追い込んで殺した。将校は、エンヴィーが化けた偽者の妻とわかっていても、愛する者の姿をしたものに手出しはできない。 そんな人間を愚かだと蔑んでいる。 エンヴィーの最後は、殺した将校の友の放つ炎に何度も焼かれ、弱っていく。 そして、主人公の鋼の錬金術師(子供)に本当は人間に嫉妬していると見抜かれ、 屈辱だと、また、子供に理解されるなんてと本音を吐いて自ら、力の源の「賢者の石」を身体から取り出して自死する… 感情を無くすことと感情に振り回されないことは全く違う 「お父様」は、人間から悪感情を抜き出したら、完成に近づくと考えたのか、 そうではなく、単に冷徹な者となっただけだった。 嫉妬者、エンヴィーは、嘘をつき、ころころとカメレオンのように変わっていく。 そして、常に人間を見下し、憎んでいる。 その本体は、小さく弱く、その本心は、人間に憧れ、人間に嫉妬していた。 それを知られると自分を保っていられなくなり、理解された喜びとともに、自死してしまう。 嫉妬心 嫉妬心を持つ者は、人を見下し、人を欺き、都合で姿を変え、嫉妬している者を憎む。 なんとも示唆的なアニメなんだろうか。 人

殷代には、心という文字はなかった・つづき

湯島聖堂 元旦に、湯島聖堂に初詣に行き、論語「素読始め」に参加する。  孔子廟であり、日本の学問発祥の地でもある。  「素読始め」が終わり、講師に挨拶をし、質問をする。  孔子様の時代には、「仁」という文字がなかったと言われていますが、いかがですか?  詩経には「仁」とあるが、美しいという意味で使われている。いわゆる「仁」という意味ではない。  では、往時は「仁」をどのように記載していたのですか?  おそらく、人人と書いて、「仁」としたのだと思う。 忠恕 能楽師の安田登さんによると、孔子様が生きておられた時代は、「忠」は下心がない「中」。「恕」は「如」と記載していたそうだ。 「如」とは、ひざまずいた女が神がかりをして、神霊や祖霊の言葉(口)を宣ることにかたどる文字であり、超越的な存在との一体化を意味し、 それから他者との一体化をも意味する(如し)ようになり、やがて「思いやり」という意味になったとのこと。 「中」は中。中心は、どのようなことがあっても中心(忠臣)であり続ける。 そんなところだったのか。 心の真ん中が「忠」ということらしい。 往時はどのような文字であったのか、考えるのは楽しい。

殷代には、心という文字はなかった

神との感応 古代は皆、当たり前のように神と感応していたのではないか。 天地自然から、直接その声を聞き、感謝し恐れ、畏怖の念をもっていた。 よりよく生きようと、感情、思考、本能から新皮質に向かって、多く使うようになり、欲に引かれるようになり、我を肥大させていった。 銅器、鉄器がつくられ、暮らし向きが豊かになり、武器もでき、争うようになり、人が人を支配するようになった。 人が神にでもなったかのように振る舞い、欲に走り次第に神との感応ができなくなってきた。 支配する者、される者、そこから外れる者、 その中にあっても、感応に特化した者は、巫女、祝と言われ、 髪を逆立て、いわゆる「いかれた人」と言われるようになった…のか。 殷代、日本では殷といわれているが、商のこと。殷は周の人たちが商を貶む意味合いでそう呼んだそうだ。 紀元前500年頃、孔子様が生きておられた時代には、心(という偏や旁の文字)がなかった。 忠や恕の文字は孔子様が生きておられた200年後、戦国時代晩期、晋の鼎や壺に見られる。尤も、まだ発掘されていない可能性もあるが。 興味深いことだと思う。  

4時間離床すると嚥下機能を維持できる

離床時間と筋肉量 65歳以上の要介護高齢者90例を対象に離床時間と全身の筋肉量および摂食嚥下機能の関係を検討する横断研究を実施。 その結果、離床は摂食嚥下リハビリテーション(以下、リハビリ)として有効であり、 4時間以上の離床では摂食嚥下機能が保たれ、さらに6時間以上で全身の筋肉量が保たれることが示された。(東京医科歯科大) 最低4時間の離床で嚥下機能維持 飲み込むことと全身の筋力 摂食嚥下機能は、口腔周囲の摂食嚥下関連筋群だけでなく、背筋など体幹の筋肉量や筋力と関連することが知られている。 健常高齢者では、運動により体幹の筋肉や摂食嚥下関連筋群の機能低下を防ぐことが嚥下障害の予防と改善に役立つ。 しかし、日常生活動作(ADL)が低下した高齢者は、摂食嚥下機能を維持するための運動を行うことが困難であり、 看護師やリハビリ・介護職員の介助により身体を動かす機会も限られる。 摂食嚥下リハビリテーション学分野の戸原 玄教授談 「ADLが低下している要介護高齢者に対する摂食嚥下リハビリとして、離床の有効性が示された。 具体的な目標設定としては、離床時間が0~4時間では車椅子上で食事を取ること、4~6時間では食事や生活動作以外の余暇時間も車椅子上で過ごすことなどが挙げられる」と結論。 重力を味方に 口から物を食べることにはたくさんの筋肉が関与する。 身体を起こし、足、胴体で支え、重力に逆らい姿勢保持して体幹(コア)の筋肉を働かせる。 上顎の歯列を水平に保つように頭を立て、指、手、腕を使って食物をつかみ、口まで運ぶ。 顔面の筋肉で食物がこぼれぬように口を、頬をすぼめ、 上下の歯を道具に咀嚼筋(咬筋、側頭筋、顎の動きに関係する翼突筋郡、舌骨上筋群)を使い、下顎は、長楕円形のチューイングサークルを描きながら食物を切断し細かく砕く。 下顎骨は、両端に関節を持つ特殊な構造だ。ただ開閉の蝶板運動をするだけではない。 翼突筋郡に引かれ、顎関節窩内で、関節円盤を伴って前下内方にスライドして動く。 口腔内では、唾液で食物を濡らし、舌を使い塊にする。食塊を舌の背で口の奥に運ぶ、舌筋郡、頬筋などを使う。 喉の奥の口蓋や咽頭の周囲の筋群、食べ物を気管に入れないように甲状舌骨筋が喉頭蓋を閉じ、食道から胃に送る。 食事、嚥下することは動物の生命活動の基本。 実に巧みに多くの筋肉郡が連動して働く。 筋肉運

居酒屋新幹線

Netflix Netflixでよく見る。 主人公は損保会社の内部監査員。 毎日のように各地に日帰り出張をする。 仕事が内部監査なので、歓迎されるわけもなく、行く先々で嫌われる。 その仕事の憂さを晴らすかのように、 帰りの新幹線の時刻まで、地元の酒と肴を探す。 探す過程でしっかり地元の酒、食材、食の特徴、食べ方を紹介する。 「主は私、客も私」、独りで新幹線の席で「居酒屋新幹線」を開店する。 木綿かな?マイテーブルクロス、割り箸ではなく、マイ箸に箸置き、 地酒にマイ盃(コップ)と木製の受皿、陶器の小皿に地元の食品、栓抜き等を準備し、 SNSで写真を撮って、配信、開店する。 すぐに仲間から蘊蓄混じりのレスが返ってくる。 そのレスがまた、地元の酒、肴の素晴らしさを強調する。 今回は、福島市編でおもしろかった。主人公が福島県の名物を言うと、それは、郡山、それは会津のものと地元民が言う。福島市には、おいしいものな~んもない、と。けど、これにしましょう、あれにしましょう。最後はすぐに売り切れる温泉卵の逸品を自宅から持ち出す。 会津のお酒にしようとしたら、たいしたものじゃないけどと、福島市の金水晶というお酒が出てくる。 仕込み水が「水晶沢の金明水」、酒米が福島県の酒造好適米「夢の香」で作られたと。 たいしたものではないと紹介されたので、たいしたものじゃなければ、勧めないで欲しいと、 期待していない風だったが、開栓してグラスの注いで、一口含むと、表情が一変。 表現豊かに、酒の旨さを語りだす。SNSもあの知る人ぞ知るあの酒か、と後押しをする。 仕込み水 前に家内と酒蔵見学に行って、自慢の仕込み水ですといって出された水を含んだ瞬間。 酒は、水だと思った。そこの仕込み水、不味い、いや、口に合わなかった。 私は、ほとんど酒を口にしないが、日本酒は、舐める。本当に飲まないのだけれども、学生時代、酒屋さんと知り合いになり、「越乃寒梅」なら、入手しやすい「八海山」、いっそ、そこの杜氏が移った先の「清泉」がいいと、だから燗酒ではなく、冷酒をほんとにちびちびと舐めていた。 水と言えば、天河の水とか、日田天領水の大寒の水とか、おいしい水を飲んでいた。 特に福井のお寺に参禅した際に湧き水、大野市の御清水(おしょうず)を飲んで、うまいと思った。 雪の日でしたが、銘水の水場に行ってよかった。 前日に泊まった

仏教を学ぶ

仏教 今日は、維摩会、春秋館で仏教を学んだ。 唯識三年倶舎八年、まだ学びはじめだが、座学、仏教哲学だけではないところが、 維摩会、春秋館の凄いところ。なにせ、実修もある。知識を得るだけではなく、唯識を実感させてくれる。 唯識の分析の細密さ、心所五一種、根本煩悩が一二八種もあり、めまいがしてくるが、 丁寧に、そしてスピード感もって御教え下さる。 理解できないという虚妄(こもう)を去った向こうに真実は現れてくるのかもしれない。 そして、決して本質(ほんぜつ)を外さない。ここが真面目(しんめんもく)なのだと思う。 維摩会 春秋館では、仏教、唯識を習得できる、そこが魅力だ。  

観音菩薩様

観音菩薩  観音様は、身近な存在として広く衆生の苦悩をやさしく受け止めてくださる。観音様と口にし、そのお姿を思い浮かべれば、ご神威ととにも温かい眼差しで観ていてくださり、それだけで苦難、不安から救済され、安心を得られ、苦難に立ち向かう力が湧いたように感じます。神仏の世界の菩薩様であって、実在の存在ではないと思われている方が多いことと思います。観音菩薩は、実在した方と言われ、紀元前250年頃、興林国(西域の国)の第三王女、妙善姫としてお生まれになりました。この世の栄華に惑わされず、仏に帰依し、仏道を修めました。  興林国は、新疆ウイグルあたり、シルクロードの一つ西域南道沿いにあり、東南にはヒマラヤ山脈を望む気候温暖な 塔里木 (タリム)盆地の タクラマカン砂漠 の南に位置しておりました。  当時の中国は、周王朝末期の戦国時代、韓、趙、魏、楚、燕、斉、秦の戦国七雄が闊歩し、中央を窺う遊牧民族の 匈奴 (きょうど)が韓、趙、魏、燕、斉の五国とともに秦を攻撃しましたが、五国側の惨敗に終わりました。  西南に位置するインドは マウリア王朝 の時代で、インド亜大陸をほぼ統一した アショーカ王 が、自分が冒してきた諸悪業の非を悔い、仏陀の教えに帰依し、仏教を守護し始めたころのことです。  観音様は、観世音菩薩、観自在菩薩と称されます。「観世音菩薩」は、法華経を訳した 鳩摩羅什 (くまらじゅう:四世紀の 訳経僧 )が観音経の中で観音様の慈悲、衆生の声を聞き届け、御名前を称すると救済されることを主眼に「観世音菩薩」と訳しました。 「観自在菩薩」は、七世紀の 玄奘 (げんじょう:西遊記でおなじみの玄奘三蔵法師)は観音様の智慧、智慧とは 般若心経 の 般若 (パーリ語のパンニャー、サンスクリット語のプラニンジャー)を主眼に「観自在菩薩」と訳しました。多くの人が耳にしたことがある「般若心経」は、観音様を表す「観自在菩薩」からはじまります。それは観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。観音様が深い智慧に行きついた時に…空について 舎利弗 (しゃりほつ:釈尊の智慧第一の一番弟子)に説いていきます。   盆地にあって周囲を山に囲まれた興林国は、周囲の地域の国々が互い争っていた時代でしたが、地勢に恵まれ、侵略と無縁な国でした。温和な妙荘王は、民を大切にして国を治めておりました。夫人の宝徳妃は、婦人の規範と

デキ 国内最古級の電気機関車

デキ 群馬、上信電鉄の98歳(ドイツ シーメンス社 1924年製)の電気機関車、デキ。 NHKのおはよう日本で放送された。 かわいいな、昔の電気機関車。貨車で生糸や石灰石を運んでいた。 平成29年、大正時代の電気機関車のブレーカーが故障し、しばらく動いていなかったが、観光庁の補助金により、動く姿が見られた。 特徴的な高い音の警笛、農作業のお昼時に聞こえてきたので、「お飯列車」と沿線の人たちから呼ばれていた。 なるほど、ちょっと高音が出ている警笛だ。 踏切に佇むご老人が取材を受けていた。 「つらい時ここに来て、小兵ながら10両ぐらい引っ張る姿に勇気をもらった」 このご老人、デキを溺愛し、自宅の庭にデキの模型を走らせ、皆を乗せ、デキを愛する会を発足させ、イベントにも出向いて皆を楽しませた。 電車が走る姿を見て、勇気がもらえる。 私は、共感した。乗り物、大好きだし。 かわいい車 映画「グラン・ブルー」エンツォのチンクエチェント(旧型のフィアット500)をかわいいと言うと、 家内は、??? 車をかわいいとは思わないそうだ。 トライアンフTR4の顔つき、ボルボ1800Sとか、ナローポルシェ、914のお尻も好きだ。 だから、デキに勇気を感じるご老人の気持ちが分かる気がする。 道具を愛でる 私は、手触りを感じるものにこだわる。 自宅で使う工具は、スナップオンまではいらないけど、KTCや、せめてTONE、Ko-kenぐらいは欲しい。 職場で使うものは、さらに択ぶというか、好みがある。 随分前に、バイトで他所に行って、腰を抜かしそうに驚いた。 この器具でどうやっているの? 必須なものが揃っていないし、使えない ぐらいやれていた 。 前にノートパソコンの画面を拭いていたら、その様子を見た人から、愛情を感じて、ちょっと意外だったといわれたことがある。 愛おしそうに拭いていたらしい。何気なく拭いていたのだと思うが。 私は、物には情を寄せるらしい。  

正直不動産

嘘がつけなくなる呪 偶然、NHKのドラマの再放送、「正直不動産」を見てしまった。 主人公(山下智久さん)が呪で嘘が言えなくなってしまい、 嘘がつければ、楽勝でトップセールスなのに営業トークが全く言えなくなってしまった。 嘘をつきたい場面、本音を言うと問題になる場面で、まっさらな本音が飛び出す。 NHKであるのにもかかわらず、正直に、 女子社員が「今度ご飯に連れてってください」とブリッ子風に誘われると。 主人公「君みたいな香水くさい女、ご飯が不味くなるから嫌」(笑) また、その上司がイケイケな営業手腕で、いわゆる視聴者がイメージする「不動産屋さん」 営業が失敗しそうになると「ごらぁ、マグロ漁船に乗るかぁ~」と脅す。 営業で一番の成績が二番に落ちたと主人公がその上司から叱責を受けていると、 新人が「二位じゃダメなんですか?」と。 それを、「なんだ、その古くさいフレーズは」と突っ込む。 昔のNHKなら忖度して出ないだろうセリフだと思った。 ライバルの市原隼人さんが、また不動産屋的な言動でいい味を出す。 NHKの露悪的なドラマ、不動産知識を得られるし、面白かった。 この嘘がつけなくなる呪、私がかかってしまったら… まったく変わりませんね… 呪にかかっていないことを暴露す、か?(笑)  

食物が原因とは限らない食物アレルギー

植物?アレルギー 前に、(旧)茶のしずく石鹸の使用者が発症した小麦アレルギーがあった。 その石鹸に含有された加水分解コムギ(グルパール19S)に経皮的に感作し、 小麦を含む食品を摂取した際に食物アレルギーを発症した。 食物が原因とは限らない食物アレルギーをざっと、 ラテックス-フルーツ症候群 ゴム手袋からなどのラテックスアレルギーの患者の30~50%に、バナナ、アボガド、キウイフルーツ、栗により発症する。 バナナ、アボガド、キウイフルーツアレルギー患者の11%に、ラテックスアレルギーあり。 花粉-食物アレルギー症候群 北海道に多いシラカンバ(白樺)や本州のハンノキの花粉の感作から、キウイフルーツやパイナップルアレルギーを発症する。 pork-cat症候群 ネコアレルギー(犬やハムスターでも)の1~3%に豚肉や牛肉を食べると蕁麻疹がでる。 マダニに噛まれてから、牛、豚、羊、馬、鹿肉で発症する。 bird-egg症候群 小鳥を飼っていて、鶏卵アレルギー、特に黄身で発症するのが特徴。 小児の鶏卵アレルギーは卵白からが多い。 クラゲに刺されたサーファー 納豆アレルギーになることがある。納豆の粘稠成分のポリガンマグルタミン酸(PGA)が主要抗原。PGAは納豆の発酵過程で初めて産生されるため、納豆以外の大豆製品にはアレルギーを起こさない。 口紅から カルミン(赤色の色素成分)を配合した口紅などの化粧品の感作から、フランス製の赤色のマカロン(日本では使用されていないカルミンが含まれている)を食べてアナフィラキシーを起こした例が報告された。  

家族を観る

父 外に女をつくって、早くに家を出た父。私には父と一緒に暮らした記憶はない。 月に一度くらいに帰って来る父がうれしかったが、そう言ったことはなかった。 家計を支えるために、働き出た母。病気になっても、そばに居てくれないのが寂しかったが、そう言えなかった。 なんせ、中学生の頃のメインテーマが「親との分離体験による基本的信頼感の構築の不備について」だ。 こどもだった私は、さみしかったとその時は素直に言えなかった。 母の父に対する評価も、母に対する評価も、家族関係を観よとの御指導により変わった。 「ろくでなし」と母から酷評されていた父は、 それでもやっぱり家族が気になっていたことに、 私が、何を言いたかったのか、感じとっていたことを… 母 常に正しい母と、まあ適当に呑気にいこうやの父は同じ屋根の下に住めるわけではなかった。 もし、父が家にいたら、父はもっと早くに亡くなっていたかもしれない。 母は、よく頑張った。なんとしても子どもたちを守ろうとした。 家族に対する証自証分 家族に対する 証自証分 は、家族について考えていても気づけなかった事を気づかせてくれた。 色々と悲喜こもごも出てくるが、そんな家族に感謝。 しみじみと「家族愛」について感ずるところがある。 ああ、父母から愛されていた。 そのことに気づかないとは、なんと、親不孝だったのだろうか。 お父さん、お母さん、大好きでした。 ご先祖様、有難うございます。  

リモートで気功法と座法

実践すること 維摩会 春秋館では、リモートで気功法と 座法 を教えて下さる。 家に居て、簡単に受法できる。有難いことだ。 気功法は、基本的なことからはじまり、コアなところまで御指導頂ける。そしてとても心身が癒やされる。 もう、初心者ではないはずなのだが、同じをことを教わっても毎回新鮮に感じる。 飽くることはない。感覚が更新されていく。(もの忘れ?ではないですよ) 座法もそうだ。只、座る。しかし、毎度のように新たな発見がある。 結論と過程 釈尊の御教えの基本は何だったろうか。 一切皆苦 、 四苦八苦 、 四聖諦 、 八正道 、 一切皆空 … 涅槃寂静 。 お経には、たくさん釈尊の御教えが書いてある。 釈尊の御言葉は、総て正語であり、真理の御言葉。 釈尊は、既に結論は述べておられ、それを僧が経典にしたのではないか。 第一結集までは、迦葉尊者ら十大弟子、五百羅漢で話合われたそうだ。 その後の口伝や記述言語、記載、編集によるバイアスが気になるが、 一切皆苦、ならば答えは、総ては苦と知ることだと思う。 その答えに至るには、四苦八苦し、四聖諦、八正道、因縁果を知り、正しく生きなさい(正しくないを去るか)ということなのだろうか。 さて、表面的な苦は実感しているが、その由来は分からない。 正しいこと、正しくないとは何? 凡夫の私には、これが結論ですと示されても、答えに至る過程が欠落している。 智慧がない。 一切皆空。総てが空って、どういうことなのか? 空を空じて…とか利いた風なバカなことはしゃべれる。 とどのつまりは、涅槃寂静なのか? 釈尊の結論、その答えに至るためには、智慧を得て、慈悲の実践が必要なのだろうか。 しかし、どうやって? そもそも、真理の御言葉は、結論なのか。 只、真理であって、結論ではないのではないか。 智慧、慈悲とは何か。それは言葉の定義を知ることで得られることではないことは確かなことだと思う。 どのように智慧、慈悲、義を獲得していけばよいのか。 凡夫の私は、維摩会 春秋館で御指導仰ぎたいと切に願う。  

昭和焼き

こどもの頃、食べたもの NHKの朝ドラ、カムカムエブリバディで回転焼き屋が出てきた。懐かしい。私の地元では、回転焼きでも大判焼きでも今川焼きでもなく、まぎれもなく昭和焼きだ。 こどもの頃、芋甚の昭和焼きをよく食べた。 根津権現の縁日のベビーカステラやたまに浮気してたいやきも食べたが、やっぱり昭和焼き。皮がパリッとした昭和焼きだった。 たいやきなら、四谷か麻布十番が好み。 芋甚は、モナカアイスもさっぱりとして美味しい。 まだ、貸本屋さん、「なかよし文庫」だったかがあった頃の話。 駄菓子屋 我々は、権現の裏門と呼んでいたが、本当は表門。すぐ前にあった駄菓子屋もよく行った。狭い店に駄菓子やおもちゃ。糸の先に大きさが異なる飴がついていた、くじ式の飴。透明な黄緑色のプラスチッキーな水てっぽうや銀玉てっぽう。指につけてこすると煙が出る忍者グッズ。小さな黒い円柱に火をつけるとにょろにょろと出てくるへび花火。舌が真っ赤になる梅ジャムをふわふわせんべいになびって食べる。太いストローに入った凄い色した寒天菓子。枯れ枝にしか見えないニッキ、噛んで味わう。懐かしい。 ドンキホーテなんてもんじやない、圧縮陳列だった。 長じてあの辺り、八重垣町は、花街だったと聞くと、 なんとなく長屋の風景を思い出す。 根津小近くの「こわれせんべい」もよく食べた。 50円だったか80円だったかでたくさん入っていた。 ジャンクなお好み焼きは、団子坂上の駄菓子屋さんだ。 ちょっと気取って自分で焼いた。 汐見坂を抜けて小学校の裏門、鴎外図書館の先だ。 究極のお団子屋さん でも、絶品は、今はなき、根津のお団子屋さんのみたらし団子。 ここのお団子で育ったので、他のどのお団子を食べても満足できない。 たしか、屋号は「大黒屋」さんだったと思う。姉の友達の家だったから名字は分かる。 端午の節句の時期になると、みそ餡の柏餅が出る。最高においしい。 この時にしか食べられない。母にせがんでよく買ってもらった。 こし餡の柏餅は、柏の葉の表でくるまれ、みそ餡は、葉の裏でくるまれていた。 だから中身を間違えることはなく、みそ餡からいった。 ここの水ようかんも至高だ。ほんのわずかだと思うけど、塩味があって甘さを引き立てた。とろけるでもない絶妙な抵抗感ある歯触り、舌触り、 なにものにも代えがたい。 こどもの頃の味覚が刻まれている。 インプリン

日本人のお手本 二宮金治郎

寸暇を惜しむ 勤勉たれ、二宮尊徳は、まさに孔子様の教えを実践した、日本が誇る君子の一人。 最近では見かけなくなったが、小学校には二宮金治郎(のちの尊徳)の像があったものだ。二宮尊徳は、江戸末期の農政家で相模国の生まれ。十代で父母を失い、苦労して四町歩の地主になった。その手腕を買われて、小田原藩桜町領・相馬藩日光神領などの農村の復興を任された。天地の恵みに感謝し、先祖、衣食住、田畑山林、産業の恩徳に報いる報徳思想をもって封建農民を指導し、死後は二宮神社に祀られた。 両親を亡くし、伯父に引き取られた金治郎は、学んでいなければ何も成すことはできないと、昼間は働き、夜は灯下で本を読んだところ、叔父からこの家の油を使って役にも立たない学問などとんでもないと灯を使うことを禁じられる。 孝行者 素直な金治郎は、それはそうだと納得し、伯父に従う。孝行者なのだ。それでも本が読みたい金治郎は、畑に菜種を蒔き、それを育て菜種油を絞って、夜に本を読む為に使った。それでも叔父は、夜はお前を養っている私の時間だからそれを学問に使うことはままならぬと禁じる。金治郎はその辺のすぐに逆らう子供とは違い、これも伯父に従う。金治郎が本を読めるのは、山へ作業に行く道すがらだけだ。薪を背負って読んだ。その姿がおなじみの二宮金治郎像だ。ちなみに金治郎像が薪を背負いながら読んでいるのが、「大学」と言われている。朱子学では、「大学」、「論語」、「孟子」、「中庸」と読み進める。 率先躬行 一大決心をして伯父の家を出た金治郎は、二十歳で生家の再興に着手する。荒地を開墾し、家を修復し、人手に渡っていた田畑を買い戻した。四年で二宮家を再興した金治郎は、小田原藩家老の服部家の破産状態の財政立て直しを依頼され、五年間で財政を再建した。節約を旨として、率先躬行(そっせんきゅうこう)して実によく働いた。かまど番の女中から節約した薪を金を払って買い戻してあげ、借金を返済させた。 なんと、努力家で愛情深く智慧ある方、しかも素直で孝行者なのだろうか、私とは天と地ほど違う。 *率先躬行(そっせんきゅうこう)人の先に立って自ら行うこと。  出典は、率先が「史記」、躬行が「論語」。 日本人のお手本 二宮金治郎・つづき  

トイレの神様おわします

やってみないと分からないこと なんてごまんとある。 自分はだめだなぁと思うと、急にトイレ掃除がしたくなる。 きれいにしていくと、やっぱり整っていく感があり、好きだ。 気持ちがべっぴんさんになるような。 ふち裏のところまで、使い古しの歯ブラシを使って飛沫を浴びないように丁寧におこなう。 仕上げは、ハイターを水たまりに少しこぼしてのまま放置。 まぜるな危険 アルカリ性のハイターと酸性のサンポールなどとは「まぜるな危険」なので、 塩素系漂白剤のハイター、洗浄成分が入ったキッチンハイターと酸性のサンポールなどの 黄ばみ、尿石をとるトイレ用洗剤は単剤で使用する。 なんで私がと、自分が(我)大きくなってしまったら、 背を丸め、体を小さくしてトイレ掃除をするのが何ともいい。  

明るい声の主

 ローソンの駐車場で受けた電話 今日は友人の命日だ。亡くなったのは13年程前になる。 その前の年の秋口だった。夜9時過ぎ、車で移動中のところに普段は電話してこないのに電話がきた。 坂の途中のローソンに駐め、何かと思って出ると、めずらしく明るい声で、肝臓がんになったと告げた。 がんに恐怖心もないし、治ると思うし、がんばって治そうと思うと。 屈指の外科医に手術してもらうことになったが、胃潰瘍が見つかり、ひと月先に伸びた。 開けたら、がんがんで執刀医はそのまま閉じた。 開けただけだったから、元気にしていた。 その後、日本で最高峰と言われていた化学療法の教授を受診したが、持参したレントゲン写真を全く見なかったそうだ。 容体は厳しくなり、結局、日本一の名医、幕内雅敏先生のところに入院した。 先輩から聞いたこと そこで見舞いに来た職場の先輩と話をすることができた。 職場では、優秀なナンバー2であって、その優秀さゆえにトップが手放さなかった。 激務で疲労をため込んでいたようだ。 その先輩は独立を強く勧めていたが、独立することはなかった。 彼は、サーブを乗り継いでいて、おしゃれな感じとか、流行を追うタイプではないので、サーブに乗る人なの?とずっと疑問だった。 お父さんが貿易商でボルボに乗っており、彼も学生の時からずっとお父さんのボルボに乗っていたそうだ。それで、同じスウェーデン車のサーブを乗り継でいたのだと知った。 お見舞い 職場では厳しかったようで、お見舞いの寄せ書きのほとんどに「叱られた」と書かれていた。彼は部下たちからきつい一撃をお見舞いされた。私には気づけない一面だった。 面会することも厳しくなり、薬石効なく、亡くなった。 その年だったか、お母さんも後を追うように亡くなられた。 理性的で落ち着いたやさしい人柄の裡に、激しいものがあったのだと思う。 合掌

習気(じっけ)

忌み言葉 その昔、共同作業をすることがあり、皆でどうしようかと相談していると、 あ~んな酷いことになる。こ~んな失敗をすると口にした途端、またそんなことを言う、と止められた。 みな、真面目で言霊を大切にする人たちだった。そしてやさしい人たちだった。 長い時間、話して、疲れてくると、つい、緊張を解すためにとの理屈で、しょうもないことを言いたくなる。 不謹慎なことを言いたくなる。こどもの時からだ。 その負の予想、結構当たりましたから、なおさら周囲を不愉快にしていた。 原因と結果 それらの失敗は回避可能だったのか不可避だったのか、口にしたから招いたのか、 準備・努力不足はなかったのか、準備・努力が足りていることは少なかった。 私は、早とちりで思い込む。これで大丈夫と思い込むと、もう周囲を見渡さず、必要な段取りもそこそこに、早く成果が欲しくて独りよがりに関係者を置き去りにして突っ走る。 実は、成果というより、評価が欲しかった。 内と外のもの 評価は、自分のもの、延長線上、身の内感があるが、成果にはさほど身内と感じない。自分の外にあるものという位置づけなのだ。 だから、成果を出すために、手塩にかけて、こんなに努力したのに…とはあまり思わない。 尤も、自分の都合で適当に、身の外に成果をつくっていたからかもしれない。 それ(成果)、使わなくなったからもういらない、と言われても、え~という間に切り替わる。身の外だからというより、評価を得るための手段に過ぎなかったからかもしれない。 目的と手段 手段が目的となってしまう。やることに意義を持ってしまうと云う履き違えはよく聞くが、目的が手段とは、どれだけ褒められたいのかと思う。 だから、次は、何をしようか、何を評価されようかと、切り替えられる場合が多い。 あっさりしていると言えば言えるが、成果を出すこと、目的・理念に対して憶い、敬意、愛情がたりない、無責任なのだと思う。 だから、周りの関係者を思い遣らず、皆で一つの目標に向けて集中している時に、身勝手に周りを不快にさせる軽口を平気でたたけるのだと思う。 言いわけ 悪気はなかったとの言い訳は、言わぬようにしたい。 その前に軽口をたたいて、他を不快にしても、私はよいのだという思い上がりを改めたい。 その行為の目的、理念、志がどういうことなのか、しっかりと感受して大事にしていきたい。 この習気(

朝の洗顔

美術の加藤先生 あたりまえのようにする洗顔だが、 小学生のころ、寝ぼけ顔で目やにをつけて学校へいったら、美術の先生と出くわし、 さすがの観察眼、お前、顔を洗ってきたかと言われ、首を振ると、首根っこをつかまれ、 用務員室の蛇口をひねり、ジャバジャバと顔を洗ってくださった。一変で目が醒めた。 輝く 洗顔で救われるというと大げさに聞こえるが、本当に随分と気持ちが切り替わる。 気持ちが切り替わったと言っても、単にスッキリと気分転換をすることでない。 たいせつなものの確認作業だと思う。それは、ものではないし、作業でもないのだが。 造次顛沛 、 行住坐臥 、行持する、されているものだと思っている。 この行をすると今は亡き友人の顔が浮かんでくる。

とうもろこしの播種

うちのとうもろこし けっこう、おいしい。 毎年、収穫を楽しみにしている。 昨年は、早生種と晩生種の種を蒔き間違えて、同時期になってしまい、一度にたくさん採れた。 今年は、しっかりと確認する。 70cmの幅の真ん中半分に深さ20cmぐらいの溝を掘り、その中に牛糞堆肥をバケツ1杯入れる。 この牛糞堆肥、コーヒーがらなどを混ぜて完熟発酵させているので、匂いがしない。 八王子の磯沼ミルクファーム のものだ。 夜に糖分を貯えたものを朝収穫して、すぐに皮ごとレンチンするので、とうもろこしは抜群の出来だ。ここの堆肥の力だと思う。堆肥置き場には、すごくたくさんミミズさんがいる。 播種 溝と床全体に配合肥料を缶一杯撒いて、土とよく混ぜる。 中央に掘った溝の上を踏み固める。ここで踏んでおかないと、ビニールマルチが凹んで真ん中に水が溜まってしまう。 30cm間隔の二穴のちどりのビニールマルチ、八穴分(左右で16穴)にくるように敷く。 ここでピンと張っておかないと、ビニールの下に雑草が生えまくる。 農園の方々 農園で声をかけてくださった、もう亡くなってしまったが、八百屋をしていた方にマルチの貼り方を教わった。 畝幅は70cmなので、前から後ろに前を土を寄せて固定して、左右にマルチをまたいで、若干外に踏み広げならが、鍬で土を仮に置きながら、徐々に右、左と下がりながら張っていく。そうするときれいに張れる(場合がある)。 白菜の漬け方を教えてもらいたかったと家内と話す。残念だ。 農園には元気なお年寄りがたくさんおられたが、年を追うごとに離れていってしまうのが、少し寂しく感じる。 指の第一関節までの深さ 各マルチ穴に二粒づつ、種を人差し指の第一関節ぐらいの深さに蒔き、上から少し湿った土をマルチ穴より少し広めにかける。 土が被らずマルチ穴の縁が空いているとそこから風が入り、雑草が入り込む。 マルチの下が雑草だらけになる(例年の風景…) 芽が出て、10cmぐらいになったら、発育のよいのを一つ残して間引く。欠株ができたら、その間引いた株をマルチ穴に移植する。 二週間ほどしたら、隣の床に晩生種を蒔く。 収穫が楽しみだ。  

意識変容

意識変容を体験 ここで言う意識変容とは意識の量的な変化、環境認識におけるレベルの変化(JCS:Japan Coma Scale)ではなく、 病的でない質的変化のこと。 肉体的に追い込んだ状況での出来事だった。 単に気分が変わる、気持ちが切り替わる、気の持ちようだけということではない。 妄想・幻覚のように客観的事実と異なる独自の現実認識があるが、 錯乱のように周囲と協調が困難になって、混乱しているということではない。 恐怖や不安感はなく、心拍数も上がっていない。 物理現実 現実認識は異質だったが、現実を見失うことはなかった。 これはいつもの認識ではない。 聴覚や視覚などの体性感覚が違う、いつもより鋭敏というより、 感受レンジが広がり、奥行きもある感じ(この表現で伝わるのであろうか)だ。 それが体性感覚を超え、知覚に及び、 相手が考えていることが伝わってくる感じがある。(ある種の関係妄想とできるかも) 私の考え、思考をこう考えているのだろうと対象に投影しているのではなく、 外からの(霊的な)働きかけを受けている感じでもなく、 はっきりと伝わっている現実感がある。 その人に意識を向けようと気にしていたわけでもなく、その人が発したものに吸い込まれるように意識が向いた感じだ。 その瞬間、「ああ、たいへんだ。もうやめたい。」と飛び込んくるように伝わってきた。 そんなことを考えていたとは、想像すらしていなかった。そんな場面ではなかったので。 こりゃ、やばいと自証分、正気に戻しました。 検証しなかったこと ここでやばいと感じなければ、あっち側の人となっていたかもしれない。 また、別にやばいことでもなかったのかもしれない。 感じたことを当人に確認しておけばよかった。 コントロールできるものであるのならば。 次に機会があれば、いろいろと試してみようと思う。 静寂  

維摩会 春秋館に出逢う前の話・肆

神経質で鈍感 その対象に興味がなかったのかもしれない。 事象・自然の息吹から「何か」をつかみ出してくるという感覚はなかった。漠然とした感覚ではなく、手で触り、目で見て耳で聞いて、どういうことか、実感として知りたかった。 知ったか 知識として、言葉として「色即是空」「一切皆空」とか知っていて語りもしたが、体感、体現として、何一つとして理解はしていない。 表在意識だけ、死んだら一切失ってしまうものを頼りとしていた。 ということさえ思いも至らず、維摩会 春秋館に出逢わなかったら、何も知らぬまま死んでしまうところだった。 ダイブしようとする友人 私の友人は違っていた。 スピリチュアルリーディング・・霊感というか直感があったように思う。 衝撃的なことを言うのだけれども、間違ったことも言うのだけれども、 どれも、私の為にと心底言ってくれていた。(と思っていた!) ※その友人談:そんなこともなかった!と、あっさり。 え"? もっとも私が突拍子もないこと言うのを受け止めることを知っていたからだろう。 そんな友人も友人なりに在学中に精神的に厳しい期間があったようで 私が偉そうに心構え的なことを『禅語百選』の引用なんかして話をすると 一応、へぇ?と関心をもっているようだった。 卒後は誰より早く独立し、自分の進むべき道を極めようと努力していた。 一時期シャーリー・マックレーンとかのチャネリングに興味があったようだ。 友人はチャネリングにはそこに至るまでのシステムがない・・と残念そうだった。 えっ、チャネリングなんかする気なのかい・・ 私も憑き物、じゃなかった霊感、霊媒系の話は、物語としてはおもしろいと思っていたが、 だからといって・・ねえ、そこに飛び込んじゃうのはいかがなものかと・・ 鉄砲玉の普段からするとやりかねない… 本人に素養もありそうで、心配だったので、よく話を聞くようにした。 開けてはいけない扉 あっちの世界は幸せだけ詰まっているわけでもないだろう。 つながる手段を得て、不用意にパンドラの函を開けてしまったら… 天に通ずる道は地の底にも繋がっているに違いない。 心の奥底に不安を抱えていた私はそう感じていた。 維摩会 春秋館の御指導のおかげ様で、今は不安に引きずられてどうしようもなくなることはない。実践する対処をいくつも教わった。 キュリオシティ どうなっているんだろう

ファーストクラスの作法

エルミタージュ美術館 久しぶりに姉と会った。義兄と一緒にエルミタージュ美術館に行ったときの話をしてくれた。 ロシアの街並みは美しく、ロシア正教の教会は、黄金色に輝いて、ソ連の時は、それなりにやれていたとのこと。エルミタージュ美術館は、夢のように美しかったとのこと。 義兄は、ツアコンに無理を言って、もう一日、特別にガイドさんを一人雇って単独行動して美術館を見た。姉はツアーで団体行動。 ファーストクラス 会社の業務でファーストクラスに乗ることがある義兄は、姉にファーストクラスとビジネスクラスと何が違うと思うと問うた。 席とかがもっと良くなるの? そうじゃないんだ。椅子の座り心地とかあまり変わりがない。お酒のグレードが上がる。 ファーストクラスの方がいい酒が置いてあるとのこと。 理由は、ファーストクラスの人は飛行機の中で食事はしないとのこと。 チェックイン時に別の入口から通されるラウンジで搭乗前にしっかり地上で食べるそうだ。 飛行機で出る機内食は、所詮、冷凍食品を温め直したもの、 ファーストクラスの人たちは飛行機での食事は口に合わないと知っている。 飛行機の中では、ちょっとしたツマミで酒を飲むそうだ。 ファーストクラスに乗ることがない私は、想像もつかなかった。  

維摩経読み始め

維摩経の背景 維摩経が成立した背景としては、説一切有部と大乗との対立関係があり、阿羅漢、独覚と菩薩の三乗、男性優位だとか女性は解脱できないとか、出家でなければだめだとか、優婆塞との対立関係にあったと思われる。 釈尊は仏陀の声を聞く者は皆、声聞と等しく扱っていたが、小乗仏教の説一切有部が先鋭、身分を差別化していき、 その流れで大乗仏教が生まれ、広く在家にも菩薩行を説く空観派と出家を説く一切有部との対立関係になったのだと思う。 時間の隔たり また、維摩経の三つの漢訳、古訳:支謙、紀元後約200年 旧訳:鳩摩羅什、400年 新訳:玄奘、600年。 それぞれ200年間違うので、今から200年前だと幕末の感覚、言語感覚が違うだろう。 釈尊がおられた時(紀元前550年ごろ)、日本で言えば弥生時代。 菩薩の救済というのはその頃の日本にとってはどのような感覚なのだろうか。 どのように受け止めたのか。 日本では農耕、弥生式土器、高床式の時代。 釈尊はその時に教え、菩薩の救済を説かれていた。実に大きなギャップだと思った。 弥生時代の救済は、命をつなぐ、衣食住を考えるレベルではないだろうか。 只管、収穫を願い祈り、暦がわりの祀りを行っていたのではないか。 日本に維摩経を紹介したのは、聖徳太子と言われている。 鳩摩羅什訳の注釈書、『維摩経義疏』推古天皇二一年(六一三)のことだ。 釈尊から千年の開きがある。 聖徳太子は、十七条憲法を制定され、その中に論語の一節を参考にされたと思われるところ、 十七条憲法は、「以和為貴」、「和を以て貴しと為す」とある。 論語では、「礼之用和為貴」、「礼の用は和を貴しと為す」 この微妙な違いは、またどこかで。 聖徳太子、厩戸皇子、出自は、皇子で神道と、お名前はイエス様の誕生を思い起こさせる。 厩戸の前で生まれたからそう名付けられたと日本書紀にある。 神道、仏教、儒教、キリスト教を想起させる聖徳太子、もっと知りたくなった。 各世代の知識ある今の視点ではなく、説かれた、書かれた往時の視座に立たないと見えてこないのでないか。   

癒やしの風景

清明 昨日の清明から、私にとっての美しい、正しい風景はどんなものだったか、想起してみた。 学生の頃、前に海、後ろに山をいだだきなながらひと月ぐらい伊豆に滞在していた。 試験と課題に追われて「痩せこけ犬」状態だった私は本能的に癒しを求めていた。 吉佐美区 波と戯れたい時は吉佐美区大浜、ゆっくりしたい時は外浦によく行った。 大浜は、なぜか外人さんが多く、BEACHっぽい。サーフレスキューも外人さんだった。 近くにとてつもなくレゲイな店もあって、夫婦はドレッドヘア、子供は素っ裸だった。 外浦ではさざえ丼をよく食べた。 随分と後に、家内と一緒に外浦のひもの屋さん、万宝へいった。 おやじが炭火で焼いくれる。 ここのひものは絶品。下田まで行くことがあれば、外してはいけない。 ジープ(2ドア系)で東京から来ていた4人組のおじさんたちは大喜び。 運転手以外、ヘベレケで狭い車内に吸い込まれた。 皆、がたいが大きくギチギチだったので仲良しさんに違いない。 真夏にぎっしりな135号線を避けて農道と山道で河津の家まで行き来していた。 コーナーの先が見えない山道を地元の軽トラックについていく。 地元の軽トラック、下りはありえないほどに速い。 遠浅で入り江になっている外浦に波は入ってこない。 マットを浮かべてボーとしていると潮に流されかなり沖に出る。 強烈な日差し、遠くの声や蝉の声、ゆったりと動くマット。 人はこれほど日焼けするのかというぐらい真っ黒になった。 空の向こうの碧落はどこまでも深い、只々、圧倒される。 ひぐらし まだ明るい夕方、気だるく家に戻るとひぐらしが鳴く。 ひぐらしの声、心寂して大好きだ。 火照った心が沈んでいく。 すると、山間の家に帳が降りてくる。  

清浄明潔 綺麗と正しいのは同じ

清明 今日は、二十四節気の清明だ。 桜咲き、庭でうぐいすが鳴く。若葉に彩られ、こごみが足元でうずくまる。 清々しい。この爽快感が正しさと結びつくように感じるのはどうしてなのだろうか。 脳の領域 「 脳では実は綺麗と正しいのは同じなんですよ 。(脳の)同じところが判定しているんです。」(脳科学者:中野信子さん) とのこと、直感で美しいと判断されることと、「正しい/正しくない」と判断する脳の領域は同じだそうだ。 中野信子さんへのインタビュー この Vogueのインタビュー記事 、直感と思考という話から、学校、社会から正しい選択を求められるが、正しい選択かどうかを決めるのは、自分とし、 直感と論理的思考を協働的に働かせるには?から両方のシステムを知ることが大事。 自分をコントロールするメタ的な視点をもつことが大きな一歩。←素晴らしい。 その方法は、「マインドフルネス」の説明、マインドフルネスは瞑想ではない。 「マインドフルネスという言葉は、mind(心)ではなく、mindful、つまり「注意とか気をフルに働かせている状態」ということです。(略)マインドフルネスとは「自分の中に何があるのか、何が起こっているのか気づきましょう」ということであって、決して無になるとか空っぽになるということではありません。」←素晴らしい! メタ視点ばかりだと自分をなくしていまうとインタビュアー。 頭がいい官僚の前例主義は冴えない。前例主義はAIの意思決定と同じ。 ヒューリスティクス=直感に欠ける。 「例えばAIに「世界平和はどうやったら実現できるか」と尋ねると、「世界中に核爆弾を落として人類を滅亡させてしまえば平和になる」という答えが出てきてしまう。問題解決にならない答えだけれど、今のAIはそれをおかしいとは思わない。では、人間はなぜこの答えをおかしい、ダメだと思うのか。その人間的な感覚こそがヒューリスティクスです。」←興味深い。 『Vogue』だからか、この先話は、直感で選んだ相手と…ダイエットの話へ展開していく。 清明からだいぶ脱線したが、興味深った。 正しさを選択、判断する、しているのは自分だが、 それが、本当に正しいかどうか、真の理、情であるかは、また別の話だと思った。 「美」感じる脳の部位発見 医療への活用期待 このあたりも面白かった 「サイコパス」の脳内構造はこうなっている  

灌仏会 維摩会 春秋館にて

灌仏会 昨日は、維摩会 春秋館の灌仏会で三時間ばかり座った。 維摩会 春秋館では灌仏会に 座禅 を行う。 呼吸、姿勢を整え、集中していく。 開始、30分前ぐらいから、一礼して座について準備をしていると、10分前ぐらいになると整い、座りやすくなった。 本山、別院、名刹、禅宗のお寺で座ったことがあった。 宗派によって、座る向きが異なり、曹洞宗は面壁九年と云われるように、壁に向かって座る。 座蒲も曹洞宗は丸、臨済宗では四角で、 手は、印、叉手の重ね方が違っていたりする。 どちらのお寺でも参禅会では、初参加の時に座り方、作法を教えてくれる。 坐禅堂 維摩会 春秋館の他で、 私が座りやすいと感じたのは、冬は膝上まで雪が積もったお寺だった。 本山に次ぐ第二道場とのこと、750年以上の歴史がある。 永年にわたり、修行者が座っていたという場の力、後押しがあるのかもしれない。 そこに居た僧侶の友人に、誘われて真冬に座りに行った。 僧侶は、一炷香、お線香が燃え尽きる時間(四十分ぐらいか)座り、経行(きんひん)、歩く禅をされる。 友人からそのまま座っていてもいいよと言われていたので、私はそのまま、何時間か座っていた。 維摩会 春秋館は、経行を入れずに続けて座る。1時間、2時間、3時間があっと言う間だ。 終わった後、甘茶を頂いた。甘いお茶なの、これ?…じわっと甘くなってくる。 はじめての方も全員、三時間座り通した。 卓越した座禅の指導と仲間と一緒だから、座れるのだと思う。 あっ、それと場の力と後押し。 善き、時を共有させて頂きました。有難うございます。 一礼して終わる。  

高齢者は1時間以上昼寝をすると認知症になるリスクが上昇

昼寝とアルツハイマー型認知症(AD)の発症 米・Brigham and Women's HospitalのPeng Li氏らは、高齢者の昼寝が将来のアルツハイマー型認知症(AD)の発症に及ぼす影響について検討。高齢者では長時間や高頻度の昼寝がAD発症と有意に関連するとの結果を、Alzheimers Dement( 2022年3月17日オンライン版) に報告した。 昼寝時間とAD発症との関連を見たところ、昼寝時間が1標準偏差(SD)増加するごとにAD発症リスクは有意に20%上昇し、1日当たりの昼寝時間が1時間以内の人に対し、1時間以上の人では発症リスクは1.4倍であることが分かった。昼寝頻度との関連についても、頻度が1SD増加するごとにAD発症リスクは有意に23%上昇した。これは、1.9歳の加齢に相当した。 毎日ではないが、疲れて昼寝してしまうことがある。 昼寝 以前は、昼休みに必ず寝ていた。 丁度、ボーダーラインの1時間ぐらい。今は、忙しくて寝ている間がない。 やはり、自然の摂理に従って、夜は寝て、昼は活動するのが、人には良いのかもしれない。 そういえば、昼寝の習慣があったせいか、認知に自信がなくなってきている。 なんだったけな?の物忘れではなく、イベントをまるごと忘れてしまうと要注意だそうだ。 自分が経験したこと、大事な約束を忘れることによって、日常生活に支障がでる。 忘れっぽくなっていることすら、忘れてしまう… 長昼寝している場合ではありませんね。 もし、家族や自分が認知症になったら 知っておきたい認知症のキホン  

菜園

じゃがいもの植付け 今年も農業指導付き農園を借りて、畑が始まった。家から徒歩15分程度、散歩がてら家内と出かける。 種芋をもらって、どれどれ、今年は、キタアカリと男爵薯だ。 芽を含んだところを選んで半切にして、切断面にシリカをつけて、上にして天日干し、ここでよく乾かしていないと、地中で腐ってしまうことがあるそうだ。 左右に幅60cmで二列。30cm間隔で八つ、深さ10cmぐらいで植えていく。 じゃがいもは、手がかからない。途中で間引きと土寄せぐらい。植えた後、水もやらない。 その後は、放り放しで花が咲き、枯れて葉が黄色くなったら、試し掘りしてから、収穫。 あまり、そのままにしておくと、どこに植えたのだっけと忘れると、土の中に残した芋が発芽して、あれ、なんでこんな時期にこの場所で、じゃがいもが生えてくる?となる。 いつの間にかにベテラン? キャベツの定植もあるので、苗を取りにいくと、声がかかる。これでいいのかと、か細い苗が2,3本一緒になった塊を示される。 そうか、今回がはじめての人もいるのだ。 苗は茎が太くてしっかりしたもの、根がしっかりあって、葉の緑が濃いものがよいと、私も先人から教わったので、そのように伝えたが、よくわからない様子。 これなんかいいのではと、一つ選ぶと、周りの人が集まってきて、これはどうですかと聞いてくる。これは、一つではなく、3つ一緒になっていますねとほぐしてあげて、元のところに戻したらと伝える。 これは、これはと次から次にやってくる。私も新人のときは、全くわからなかったので、皆、対応した。 私はうろ覚えのことが多いけど、もう十年以上もやっているから、教えられるようになっていないといけなかった。ちゃんと憶えておこうと思った。 時の流れ 畑をはじめて、時間の感覚がちょっと変わった。 小松菜の種を植えて1週間経たずに双葉が発芽、2~4週間引き、間引いたものも食べられる。 そのあたりから1週間でグンと驚くほどに成長。 キャベツに追肥をして2週間もするとびっくりするほど大きく成長する。 きゅうりの花の付け根にはとげとげがたくさんあるちいさなキュウリが待機する。 キュウリは一日一日が勝負、一日見に行かないと、ヘチマになってしまう。 大きくなると皮が固くなる。 ここ数年、トマトがいい感じになり、枝豆とトウモロコシは本当にうまい。 家内が農園の脇で自生してい

静寂

死海のプール その昔、豊島園 庭の湯に死海の塩水プールがあったころ、好んで浮かんだ。 ここで暫く浮かんでいると、水よりも遙かに浮きやすいので全身の力が抜けて感覚が遮断されてくるような気がしてくる。 もう気分は映画、アルタードステーツの気分。(笑) 映画は見てないが、たしか主人公が自分を被験者にして硫酸マグネシウム(エプソムソルト)溶液を満たした小さなプール(アイソレーション・タンク)で、体性感覚を遮断し、脳に作用する薬を用い、 体細胞の記憶(系統発生:人間も受精時に単細胞→受精→卵割→魚→両生類→ほ乳類の順に胎内で成長していく)の根源に遡る実験をする。 その実験過程で自分(肉体)が進化の過程を逆行し、肉体も変化し、えらいことになってしまう… 疑似体験 死海のプールで力まず浮かんでいるとそこはかとなくそんな感じがしてくる。 気がつくとお魚になった私が… 静寂はどこにあるのか、外にあるのか内なる自分にあるのか。 この感覚を感じているのは、本当に自分なのか、では自分とは何者か… 塩水に浮かび、耳を澄ましていると、結構、濾過器のモーター音が喧しいのです。 この騒音を超えると、そこには静寂が… もう一歩のところでしょっぱい滴が口に入り、あまりの塩辛さに我に返る。 意識変容