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6月, 2022の投稿を表示しています

あ・つ・い

まだ若い学生の頃、真夏に下田の浜辺に近いホテルのテニスコートを借りた。友達と打ちはじめたけど、テニスするように短パン、半袖になっただけで、暑苦しかった。1時間ぐらい借りたけど、15分ぐらいしかできなかった。 砂浜に寝そべっていると、たまにバイクで来た人たちを見かける。ジーパンを見るだけでも暑い。ごくたま~にフルファイスのまま歩いているライダーを見かける。暑さを想像しただけで、たまらない。夏は、バイクやオープンカーは向かない。ちょっと涼しそうにみえるかもしれないが、バイクやオープンカーは春、秋がよさそうだ。まだ冬の方がいい。 今朝も、柴の散歩に行ったが、朝、9時にはもう耐え難い暑さだった。日陰を探して歩いて、早々に退散した。 買い物も15時過ぎにした。近くのホームセンターに夏の敷物を買いに行った。いつもは、露天の駐車場に駐めるのだけど、今日はさすがに、屋内駐車場に入った。 前は、竹製の敷物だったけど、柴がカリカリして上がり、ゴザにしようかと思ったけど、爪ですぐにバリバリになりそうなので、裏地があるイグサマットにした。畳の香りがする。 家のママチャリがなんか変な音がするなと思っていたら、後輪のスポークが根本から2本折れていた。もう、20年も乗っているからタイヤもボロボロで亀裂も入っているけど、パンクもぜすに頑張っていた。スポークだけの交換で済みそうにないので、ホームセンターの自転車部門の人に、後輪のホールの交換費用を聞いた。1日預かりで1万3千円程度だそうだ。 たぶん中華の、安い新車のママチャリが1万5千円程度からあるからなぁ~と、通販で5千円以下の新しいタイヤ、チューブ、ホイール、ブレーキセットを手にいれた。 はたしてこんなに暑いのに交換作業ができるのか?  

本当になにもできない

商社の人 その昔、カンボジアに行ったことがあった。一緒に行ったのが、商社の人たちだったから、貧乏旅行ではなかった。商社の人たちは、プロペラ機には乗らない。落ちる可能性が高いからだそうだ。商社の人たちはビジネスクラス以上、航空会社と付き合いがあるからだそうだ。途中、トランジットでタイに寄った時、食事をしたのは、アジア最高級といわれる オリエンタルホテル のテラス席だった。 商社の人を見かけたバンコクで日本料理屋している女将が挨拶に来た。 インターコンチ カンボジア国内では、インターコンチネンタルに部屋を取ってもらった。 警備が自動小銃を持っていた。安全の為、絶対にホテルの外に出ないようにと言われた。 カンボジアは、フランス領だったからか、パンがおいしかった。 朝食は、コックさんに眼の前でオムレツをつくってもらった。 なんか、いいところだった。時間がゆっくり動いているようだった。 昼間は、政府関係機関に行った。移動はクーラーがシーンと効く4WDのパジェロだった。 現地では、こんなきれいな車、全然走っていない。 バブルの頃の日本の商社、なんかすごかった。 昼の2時頃、事務所の温度計を見ると50度くらいあった。 これじゃあ、働けないわけだ。頭の芯まで、ボ~としてくる。 暑い国の人たちは、なんか怠けているような偏見をもっていた。 自分がその場に置かれると、本当になにもできない感じだった。 まさか、日本で、そんな気候を味わうようになるとは思ってもいなかった。  

夏やさい 今日の収穫

微妙な大きさ もう、梅雨明けしたのか、それにしても朝6時半でももう暑い。このまま、秋のお彼岸まで暑いのか、たいへんだ。 今日の収穫は、なんか微妙な感じ。土曜日には小さくて収穫を見送ったきゅうりは、ヘチマと化した。なすは、順調だけど、大きくなってはと、採ったら家内からなすは水がないと大きくならないから置いておいてよかったとのこと。いんげんは、先週しこたま採ったので、もう終わりで片付けた。かぶは、脇に植えたものを収穫した。ピーマンは、二株から三株に増やしてよかった。ししとうは、これから暴れてくれると思う。 じゃがいもの試し掘り 葉が黄色くなって、クタッとした茎の下を手探りで掘っていく。表面が日に当たり緑になったもの、小さいいもはソラニンやチャコニンなどの天然毒素があるので、食べない。じゃがいもは、水洗いしてはいけない。土がついたまま、庭で陰干しにし、米袋みたいな紙袋に保管しておくと結構長期保存できる。 小ぶりなきゅうり きゅうりは、このぐらいのものを残して、あさって、収穫する予定。 大きいか? これも残したが、家に帰って写真でみると、案外大きい。採っておくべきだったか。 枝豆 順調、順調、楽しみだ。  

意識の起源・つづき

愚鈍 前回 、「もちろん、物質だけの宇宙に、言語の精神などという概念もあろうはずもなく、有情の意識などかけらもなかったと思う」と書いた。 わたしには、認識できないことは、無かったことにしたい悪い癖というか、愚かさがある。 本当に、物質だけの宇宙に、精神、意識は無かったのだろうか? 御心のままに 因果、原因があって結果がある。原因がないのに精神、意識の発生という結果はありえるのだろうか。人間原理として、これ以外にありないという物理定数と種々の対称性の破れだけで、物質ができ、アミノ酸ができ、生命が誕生し、意識が生じるのであろうか? 本能 子孫をつくる、次世代に遺伝子を残す。その為に命を維持するために、摂食、捕食をする。そのためには、運動器官、感覚器官、脳神経、脳を発達させていく。 赤ずきんちゃんじゃないけど、お前の匂いをよく嗅げるように、顔をよく見るため、声をよく聞けるように…お前を食べるために~と。 だが、生態ピラミッドを見れば、わかると思うが、必ずしも頂点捕食者だけが生き残るだけではない。 生物発生原則 人は、卵に精虫が飛び込み、受精した瞬間に、渦を巻き、大変化を予見させる。まるで渾沌から宇宙を生じるのを見ているようだ。哺乳類の胚は、下等脊椎動物に似る。「個体発生は系統発生の短い反復要約である」、生物発生原則だ。 ミトコンドリア 15億年前、地球に猛毒の酸素が大量発生し、嫌気生物は絶滅に向かった。酸素を取り入れ、エネルギーに変えることができたバクテリアがいまも生き残っている。それも、私達の細胞の中に、一つ一つに。そう、ミトコンドリアだ。 ミトコンドリアの活性と記憶形成は、直結している らしい。 阿頼耶識には、ミトコンドリア時代の記憶があるって言われても、 えっ、そうなの?と思えてきた。 瞑想 ちいと、座ろう。もう少し、何か、感じ取りたい。

意識の起源

解剖学・生理学では、系統発生的に古い脳である脳幹網様体が意識の賦活系(覚醒を維持する脳内の機構)であるとされている。 その中で意識が清明な時の思考の発火点は間脳あたりだったかな?と曖昧な記憶のまま。 その意識の発生はいつの頃なのかと、ふと、思う。 宇宙開闢 137億年前、宇宙開闢時、11次元が折りたたまれた(M理論)ポテンシャルエネルギーが解放され、その1プランク時間後に空間(宇)と時間(宙)、宇宙が現れる。空間は、インフレーションと呼ばれる光速を超えて加速膨張し、時間は、宇宙の変化を刻みはじめる。 物質と反物質 大量の粒子と反粒子は対消滅し、残った粒子が宇宙の物質の素となる。四つの力はまだ、一つのまま。粒子は質量を得て、やがてクォーク、陽子、中性子になる。宇宙誕生から約38万年後、宇宙が晴れ上がるまで、光も直進できずに散乱してしまう。 超新星爆発するまでは、鉄までの質量の元素しかなかった。 もちろん、物質だけの宇宙に、言語の精神などという概念もあろうはずもなく、有情の意識などかけらもなかったと思う。(言語ではなく、宇宙意識とか、人間原理みたいな話は、また別枠で) L-アミノ酸 地球ができたのは46億年前、始めての生命誕生はその10億年後といわれている。地球の生物は、アミノ酸でもL-アミノ酸が使われる。そのL-アミノ酸の起源も地球内説(非対称な鉱物表面への選択的な吸着説、選択的結晶化説、地球の磁場に由来する説)、地球外説(中性子星などからの円偏光紫外線や、超新星爆発時の大線量β線(左偏極電子線)による不斉分解説)諸説いろいろある。 有情の誕生 哺乳類が誕生したのは6600万年以降、人類が誕生したのは、ほんの20万年前。 36億年前のバクテリアレベルでは、自他の別などないであろう。個体の識別すら難しい。 両生類の能所は、どうなのか、子孫を残すこと、捕食をすること、されること。 そのことによって、運動器官、感覚器官は洗練され、脳機能も発達していった? 脳の発達による、自他の識別、他の区別はあったのだろうか? 哺乳類には、自他の別がありそうだ。子孫を残すこと、捕食をすること、されること。 それら動物のものは、本能としての生存競争はあるが、 自然発生的に起こり、自然に終息していくもの。 自然の営みだと思うが、人間は、それを執着をもって行う ことがある 。 このあたりの欲望、

盗みの良し悪しではなく、心根が正直であるかどうか

子路第十三[一八] 葉公語孔子曰、吾黨有直躬者。其父攘羊、而子證之。 孔子曰、吾黨之直者異於是。父爲子隱、子爲父隱。直在其中矣。 葉公、孔子に語(つ)げて曰く、吾が黨(とう)に直躬(きゅう)なる者有り。其の父羊を攘(ぬす)みて、子之を證せり。 孔子曰く、吾が黨の直き者は是に異なり、父は子の爲に隱し、子は父の爲に隠す、直きこと其の中(うち)に在り。 この章は、親が子のために羊を盗むこと、それを隠すのは良いのか悪いのかの議論があると思う。 法家と儒家の戦いといったところか。 孔子様は、盗むのは悪くないと仰っているのではなく、 父、子のために羊を盗むこと、子はそのことを隠すところの心情は、天に真っ直ぐな気持ちと仰っているのではないか。 行為の良し悪しではなく、心根の中にある正直さについて述べているのだと思う。 父子の情に正直であれと。  

トマト暴れる

いつものことだが、ちょっと目を離したすきに、やさいが暴走する。キャベツは割れ、ナスはどろーんと大きく、きゅうりは、ヘチマ化した。今日も、きゅうりを今日採るには小さく、明日か明後日かという感じで置いてきた。 これから人参の種まきだが、その前に配合肥料を入れて耕す。二週間ぐらい置いてから播種。 風が強く、ピーマンとししとうが倒れかかっていたので、支柱に補強をいれた。 ヤングコーンが採れはじめた。じゃがいもはそろそろ葉が黄色くなりはじめ、天気が良ければ試し掘りができそうだ。枝豆は、段々とぷっくりしはじめた。夏の最大の楽しみは、とうもろこしと枝豆だ。本当に美味しい。 今日採ったきゅうりも甘く感じるぐらい美味しい。上出来だ。 それにしてもまだ6月というのに暑い。7月、8月はどうなることやら…  

分別がない

昨日、愚かと愚かでないことを区別することは、 愚かなことかもしれない と書いた。 先日、テレビでお坊さんが、愚かで頭が悪い仏弟子の話をしていた。その弟子は、教えも理解できず、句の一つも覚えられず、自分の名前すら忘れてしまうほど愚かであったので、愚路と呼ばれていた。 釈尊は、その弟子に「自分を愚かだと知っている者は愚かではない。自分を賢いと思い上がっている者こそ、本当の愚か者である」と説き、彼に箒を与えて、「払いたまえ、浄めたまえ」と唱えて、掃除をするように指導された。 テレビのお坊さんは、その弟子は、ここは汚れている。ここはきれいと分別している。自分勝手に分別していることに気づき、悟りを得た。分別を離れよという話だった。 凡夫・愚者は正しさを得られるのか? 十六羅漢のお一人、周利槃特(しゅり・はんどく、チューダ・パンタカ)のお話と思うが、落とすべき汚れとは、貪、瞋、痴の三毒という心の汚れだと悟り、煩悩を滅して、阿羅漢果を得たとされている。 この世は虚仮であっても、現実的に何が正しいことなのか判断して行動できることが「正しいこと」だと思っていた。 だが、凡夫・愚者は、「何が正しいことなのか判断」できない。自分が正しいとしてしまう。正しい判断をしたと思い込む。 ほんとうの、ありのままの「正しいこと」が見えていない=存在を認知できない、認知できないことを「無いこと」と思い込むからだと思う。自分の狭い認識世界が絶対、我を絶対的に捉えているからだと思う。 わたしは、たとえ正しい判断ができないとしても、その判断に愛あれば、救いはあると教わっている。自分の行い、判断に、そこに愛はあるんか、と問うことにしている。 -- 凡夫の分別は、主観と事物との主客相対の上に成り立ち、対象を区別し分析するから、事実のありのままの姿の認識ではなく、主観によって組み立てられた差別相対の認識に過ぎないため、妄分別(もうふんべつ)である。それによって得られる智慧である分別智(ふんべつち)も一面的な智慧でしかない。それに対し、主客の対立を超えた真理を見る智慧を無分別智(むふんべつち)という。俗には無分別は「思慮の足りないこと」の意義で用いられるが、仏教では本来と反対の用法である。 --  Wikipedia これでいいだろうと、いくらブーツストラップを引き上げても自分が宙に浮くことはない。 なら、思考で判

之を知ること

子曰く、由、女(なんじ)に之を知ることを誨(をし)えんか。之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す。是れ知るなり。(爲政第二[一七]) 孔子様は子路を呼んで、告げた。汝にこれを知るということを教えよう。 知っていることを知るとして、知らないことを知らないと、はっきりさせる。これが知るということだ。 その通りだと思った。 「知る」は「愚か」に置換できるかどうか試してみるまでは。 之を愚かを之を愚かと為し、愚かざるを愚かざると為す。是れ愚かなり。 愚かとは、愚かであることと愚かでないことを区別し明確にすることは、愚かなことだということになる。 愚かであるかどうか判断することが既に愚かなことなのだ。 自縄自縛、愚かさは、愚かに縛られる。 愚か者は愚かでないことを知る術はない。 それは、私は確かに愚かなのだから。 知ると知らざるの区別を明確にする。それは知るということの輪郭をはっきりさせる。 しかし、知るとしていることは、知ることではなく愚かなことかもしれないと思った。  

みえる・みえる

ちょっとした副収入があった時、東プレのキーボードを手に入れた。これも手?指に馴染む道具だ。打鍵感がしっかりしっとりしていて、本当に打ちやすい。私は、ほとんど文章を書かないので、宝の持ち腐れ感はあるが、入力が気持ちよくできる。 他のキーボードを使うときの、あれ?こんなんだったけ感(計度分別(けたくふんべつ))がでてしまうが、私は、東プレのキーボードが好きだ。 みえる・みえる で、 眼がすっきりして 、改めていろいろな物が目に入るようようになった。 キーボードが汚い。柴が家の中に庭の土を持ってくるので、キートップの脇が汚れて柴の毛があったりする。 配列を間違えないように事前に写真を撮ってから、真ん中に写っている、キーを引き抜く道具(キーキャッププラー)でキーを外して、中性洗剤で洗った。 おお、こんなに白かったのか、気持ちがいい。

カエルが帰っていった

庭にメダカ鉢を置いたり、バケツを埋めてメダカを飼っている。蚊が出るので、花屋さん(うちの柴を紹介してくれた)に相談するとハーブとカエルを飼うとよいとのこと、アマガエルは居着かずにすぐに逃げてしまうから、トノサマガエルやダルマガエルがよいとのこと。職場のそばの田んぼにいたトウキョウダルマガエルをバケツを埋めた池に放った。バケツの池は柵を挟んで東西に分かれて2つあるので、柴のいる東側ではなく、西側に放った。しばらく居着いていたが、うちの柴が西から東に移動中のカエルにじゃれていた。 かわいがり 裏の家にも池があるので、そちらの方からか、ヒキガエルが遊びにきたりしていた。そのカエルも見なくなった。 柴の手荒い、かわいがりを受けてカエルくんたちは、もう出てこなくなった。 カエルの顔がかわいくて好きなのに残念。

注目すべき論語本のまえがき

サブカル高校生 あまり学校には行かなかったけど、高校のころ、漫画はよく読んだ。有名どころだと、上村一夫さん、たぶん知られていないだろう、宮谷一彦さん。思い起こすと、TR4、Volvo1800sなど好きな車は、ほぼ、宮谷一彦さんの漫画に出てきた車だった。私の愛読書は『ガロ』だった。つげ義春さんも読んだけどよくわからなかった。サブカルという概念もないころだと思うけど、ヘタウマの湯村輝彦さん、あの糸井重里さん、超芸術トマソンの赤瀬川原平さんらが投稿していた。その中の一人に呉智英さんがいた。よくコラムを書いていて、好きでよく読んでいた。 『現代人の論語』という本の背表紙に 呉智英 の文字列を見て、あの呉智英さんなの?と懐かしく思った。こういうものも書くんだと思った。いや、こういうものを書く人だった。 大御所の間違え その本のまえがきに吉川幸次郎さんの勘違いを指摘してる。 陳亢(ちんこう)、伯魚に問ひて曰く、子も亦た異聞有りや。對へて曰く、未だし。嘗て独り立てり。鯉趨(りはし)りて庭を過ぐ。曰く、詩を学びたりや。對えて曰く、未だしと。詩を学ばざれば、以て言うこと無しと。鯉退きて詩を学べり。他日又独り立つ。鯉趨りて庭を過ぐ。曰く、禮を学びたりやと。對えて曰く、未だし。禮を学ばざれば、以て立つこと無しと。鯉退きて禮を学べり。斯の二者を聞けりと。陳亢退きて喜びて曰く、一を問ひて三を得たり。詩を聞き、禮を聞き、又君子の其の子を遠ざくるを聞く。 (季氏第十六[一三]) 吉川氏は、その解説で「なににしても、 孔子没後の問答である 。陳亢が伯魚にたずねた。孔子の実子であられるあなたは、なにか特別な教えを、お聞きになったことがありますか。」と書いている。 息子の伯魚は、孔子様よりも前に亡くなっている。その後に愛弟子の顔回も亡くなった。 呉智英さんの指摘は、 孔子様の没後の話である筈がない。それが訂正されずに今の今まで誰にも指摘せずに刊行され続けている。専門家も含め、吉川論語の読者、30万人は皆、積読していたのか と。 残念ながら私も気付けなかった。  

中華監視カメラとインターネット・エクスプローラー

  セキュリティソフトでしっかりガードしているが、安価に負けて中華監視カメラを別の時期に2台入れた。玄関を二方向で押さえてある。インターフォンの映像も保存しているし、画像を確認するのは、近所の人から道に犬の糞があったと言われた時、「こいつですぜ」と差し出す以外にあまり使い道はなかった。 画像を確認していたのは、インターネット・エクスプローラー(Active Xが使えないChromeとかFirefoxでは画像が映らない)だった。IEは、6月15日でサポートが切れるので、EdgeのIEモードに切り替え、映像が見えたので、IEをアンイストールしたら、なんと、再起動後にIEモードにするにはIE11が必要だからインストールしてくれと。ああそうですかと、IE11をダウンロードしたけど、今度は、最新のインターネット・エクスプローラーがインストールされているので、インストールできないとほざく。いや、それアンインストール済みだからEdgeのIEモードが起動できないとさっき言っていたんじゃなぁい。 カメラが使えないのは不便なので、サポート終了後にIE11をインストールする方法を探したが、最早できないようだ。結局、設定のアプリと機能>オプション機能からInternet Explorer 11を追加した。 それでやっと映るようになった。 P2Pやテレネット、Wifiで接続していないとはいえ、使っておきながらだけど、中華カメラ、やっぱり使いたくない。

目から鱗を落とした後

後発白内障の手術(といってもレーザー照射、両眼で10分間ぐらい)を受けて一週間後。直後は、黒いゴマ粒が6つぐらい見えた。視野の隅に黒いものがささっと動く、なんか、虫、ゴキちゃん? じゃない、飛蚊症。次第になくなっていくと説明うけたが、前から糸くず状のものはあったので、増えたのは不快。しかも濃い。小さいのは救いだった。 一週間経つと、ゴマ粒は、左眼に3つ、右眼に1つに減って、気にならなくなった。 それにしてもスッキリ見えるようになった。左眼はすごく霞んでいたが、かろうじて、1.2まで見えるようになった。車の運転も楽になったし、仕事でも以前のように識別できるようになった。術後の爽快感を二度も味わえるのは善いことだった。 気持ちも明るくなり、もう少しがんばってみようと思った。 有難うございます。 目から鱗を落とす  

印象的なアナウンス

  前職はけっこう大きな箱のところだったので、食事とかに行って、行方不明になると呼び出しがかかる。構内PHSなんかない時代で、専門職の人のコールで、イントネーションが独特だった。語尾をちょっと伸ばす感じで。聞きやすくて、あっ、呼ばれたという感じですぐに気づいた。すぐに戻るか、内線電話を使う。 大箱で、研修生とか、人もたくさんいて、楽しい職場だった。 その楽しさにかまけて、厳しい道もあったけど、楽な道を選んだ。 しかし、楽しいことは長続きはしなかった。手厳しいことが待っていた。 無意識の裡に、今も行動判断、自己評価に影を落としているのだと思う。 けれど、只、影を落としている。只、それだけのことだと思いたい。 影は光をあてれば消える。 影と気付き、注意し、行動を変えることが影に光をあてることだと思う。 只、気づき、光をあてていく。

OK, Google

AIに感情があると言い出したエンジニアを見ていたら、Googleの社員の待遇が目に入ってきた。よく知られているところの 社員食堂 。三食、デザート、おやつまで全額無料。しかも、高級なビュッフェ形式。どれだけ食べてもいい。 社食 でスペインフェアとかする。食事だけで数百万ドルかけているらしい。入社当初は皆、太るとのこと。太ると次にするのは… 会社にジムやボーリング場、クライミングウォールがあるとのこと、診療室はもちろん、カイロやマッサージまで受けられると、驚きだ。そして 社員専用のドックパック まである。社員が犬と一緒に出勤できる。ああ、今の職場に犬をつれていったら…たいへんなことに…  部署は、自分の希望で移動でき、チームやプロジェクトの参加も希望すれば参加できることもあるようだ。なんと自由な… いいなぁ~ Google。日本でいいなぁ~ここと思ったのが、議員会館だった(笑) そういえば、ほんの少しの間、大手町の都市銀にいた。そこの社食はそこそこだったが、高層階にはラウンジがあったり、四谷のお酒が飲める銀行のクラブに連れていってもらったり、鎌倉山に整腸剤のわかもとの創業者の別荘を持っていて、そこでクリスマス会をやったのが最後の思い出だった。それにしても、 わかもとの創業者の別荘 、凄かった。 バブルの頃だったけど、部長職は、黒塗りの車を自由に使っていた。その車に乗って前職の職場に向かったっけ。 いかんいかん、 嫉妬のエンヴィー が頭をもたげてきた。

感情を持つAIは証自証するのか?

AIのジェンダー ウォール・ストリート・ジャーナル によると、「人工知能(AI)を使用するグーグルのチャットボットが感情を持ち始めたと主張していたエンジニアが休職処分を受けていたことが分かった。グーグルはエンジニアの主張を否定し、守秘義務に違反したと述べている。  アルファベット傘下のグーグルでソフトウエアのエンジニアを務めているブレイク・レモイン氏は、言語を模倣するチャットボットの開発に利用されている内部システム「LaMDA」には人格があるため権利もあるとし、魂を持つ可能性も考えられると述べていた。」 すわ、ついにAIが感情をもったのかと思ったが、Google側は否定したとのこと。 エンジニアは、「人格があるため権利もあるとし、魂を持つ可能性も考えられると述べていた。」なんてことだ。 終わりの始まりか LGBT&AIになるのか、なんかたいへん。AIが最適化の問題を論理的、ヒューリスティクスに解決してくれるのはいいが、AIが搭載された兵器が感情を持つと、もう気分はターミネーター。 ヒューリスティクス 中野信子さんへのインタビュー にあった、「例えばAIに「世界平和はどうやったら実現できるか」と尋ねると、「世界中に核爆弾を落として人類を滅亡させてしまえば平和になる」という答えが出てきてしまう。問題解決にならない答えだけれど、今のAIはそれをおかしいとは思わない。では、人間はなぜこの答えをおかしい、ダメだと思うのか。その人間的な感覚こそがヒューリスティクスです。」 この件、注視していきたい。

きのうの話のつづき

孔子様に弟子が野菜の作り方を教えて欲しいと言うと、もっと上手な人がいるからとお答えになり、質問した弟子がそこから出ていくと。 子曰く、小人なるかな樊須(はんしゅ)や。上(かみ)、禮を好めば。則ち民 敢て敬せずといふこと莫(な)し。上、義を好めば。則ち民敢て服せずといふこと莫し。上、信を好めば、則ち民敢て情(まこと)を用ひずといふこと莫し。夫(そ)れ是く如くんば、則ち四方の民、其の子を襁負(きゃうふ)して至らん。焉んずぞ稼を用ひんや。 (子路第十三[四]) 孔子様は、弟子たちに君子の道を説かれている。上に立つ者が、礼を好み、義を好み、信を好めば、民は、情を用いないことはない。子を背負って民が集まり農耕をするようになる。為政者らが自ら農耕をすることにはならない。 孔子様は、多才なお方であるので、当然、農業にも通じておられたのだと思う。孔子様は、世の中を導く君子を養成しておられ、まさにのその現場であるので、君子が行うことを説かれたのだと思う。農耕を軽んじたのではないと思う。 ほかの章で、孔子様を隠者(世から隠れて、食べるために農耕している)が「四体勤めず、五穀分せず。孰をか夫子と為さん」とか揶揄する記述もある。孔子様は口達者な「佞者」を亡国の徒として退けていた。 国を構成する一員としてどのように社会と関わっていくのか、隠れていてはいかんと、その姿勢が問われているのだと思う。 えっ、家庭菜園している場合じゃないの? きのうの話

少し陽が出てきた

トマトは順調、下のほうをすっきりさせて、病気対策をした。  きゅうりも同じく、下のほうをすっきりさせて、順調。ことしは、しっかり収穫できるといいなぁ。 キャベツは、すこし育ち過ぎて割れた。自家用に。春キャベツは柔らかいので、コールスローなど生食をする。千切りとかも好きなのだが、うちはカツとか肉類は食べないないので、コロッケの日に付け合わせで出てくるかな。 もっと、野菜の育て方を学びたい。 おっと、これ、孔子様に弟子(いい奴なんです)が野菜の作り方を教えて欲しいと言うと、もっと上手な人がいるからとお答えされていたことを思い出した。 樊遲、稼(か)を學(まな)ばんと請(こ)ふ。子曰く、吾(われ)は、老農(らうのう)に如(し)かずと。圃(ほ)を爲(つく)ることを學(まな)ばんと請(こ)ふ。曰く、吾は老圃に如(し)かずと。樊遲出(い)ず。(子路第十三[四]) 初読の時に、マネージメント能力を求められている時に、コピー機の使い方を社長に聞くようなもの。と思ったけど、なんか浅薄な感想だなと、今は思う。 この話のつづき

日本人に求められていること

今の日本を復興させるには、日本人としての誇りを取り戻すこと、孔子様が説かれた「克己復礼」、義や道理を説く教育が大事と思う。 子曰く、其の身正しければ、令せずとも行はれ、其の身正しからざれば、令すと雖(いへど)も從はず。(子路第十三[六])  ここは、孔子様が為政者の姿勢を説いた。身を正し、持していれば、命じなくとも臣下、臣民、周囲は適切な行動を執る。正しくなければ、命令しても従わない。 おまえは己の身を修めているのかと問いかける。儒教が正しく伝わった日本では、上に立つ者は、指示が通らぬと、己を省み身を正し修正する。不都合、不幸の原因を他に求めず、自分に求める。品性卑しからぬ人にはそうした傾向がある。己の身が正しければ、人はついてくる。その指示や命令の正誤や妥当性に従うのではないのだ。 徂徠は、国に道が廃れていれば、身を修めていても政治がうまくいくわけがないと異を唱える。確かにその通りだ。国を治めるには、修身教育は欠かせない。欧米のキリスト教文化圏は聖書。イスラム圏はコーラン。神が正しさを示す。仏教圏は仏典。神仏が正しさを示し、絶対なる者に従うのではなく、己と向き合い、己の執着、こだわりを去れ、去った後に智慧、慈悲が現れると説く。異質である。 儒教は、四書五経、「論語」「大学」「中庸」「孟子」の四書と、「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」の五経。克己復礼、己に克ちて礼に復(かえ)る。孔子様が、一番弟子の顔回に仁を問われて、「己に克ちて禮に復る」ことが、仁であると答えた。先ず、一日からでも、皆が己に克ちて礼を行えば、天下は仁道に帰すと仰った。仁、他人の心を吾が心として、真(まこと)をもって接することは、自らの意志で行うこと、他に委ねることではないと説く。君子とは自らの意志をもって行動する者とも云える。日本に於いて、儒教的な神と云ったら、他人の振りみて吾が振り直す、「他人様の目」がそれに該当するのかもしれない。他人様が必ずしも正しいといえないが、大勢に従おうとする。消極的に和を以って尊しとする姿なのかもしれない。 季康子、政(まつりごと)を孔子に問う。孔子対えて曰く、政(せい)なる者は正(せい)なり。子(し)、帥(ひき)いるに正を以てすれば、孰(たれ)か敢(あ)えて正しからざらん。(顏淵第十二 ) 魯の大夫の季康子が、政治の要を孔子様に問うた。答えて孔子様は、政の本義

目から鱗を落とす

五年ほど前に両眼、白内障の手術を受けた。その前、ものがダブって見え、かなり見えづらくなっていた。日帰り手術は両眼20分程度で終わり、特に眼帯も必要なく、二ヶ月ぐらい点眼を続けた。乱視もかなり修正され、後でメガネ屋さんが感心していた。遠くを見えるようにするか、近くを見えるようにするか、遠くも近くも見えるようにするのか、選択肢があったが、普段から近眼でメガネをかけていたので、近くを見るためにかけるメガネより、近くを見るために外すメガネが欲しかった。 若い頃、近視が酷かったので、ラジアルケラトトミーを受けようとした時、そこの眼科医が、手術をすると外すメガネがなくなりますよと言った。メガネがいらなくなるという意味かと思ったが、メガネを外しても近くが見えないと解した。わたしは、メガネなしでものが読めるようにしたかった。 その後、暫く不自由はなかったが、ここに来て、左眼がかなりかすむようになり、焦点が合わせづらくなり、仕事にも支障があるので、思い切って眼科を受診した。 眼科医は、こともなげに、せっかく散瞳しているので、今日、やりますか?と。眼科医にとっては、YAGレザーで後嚢を切開することは、なんてことないことなんだと知った。 外来の合間に、10分もかからないで両眼の施術は終わった。散瞳しているので、かなり眩しかったが、視界がスッキリと開けた。気持ちも明るくなった気がする。 若干、いくつかゴマ粒のような飛蚊症がでたが、改善していくとのこと、よかった。 有難うございました。 目から鱗を落とした後  

次元の認知

人が認知できる次元は三次元、せいぜい四次元と言われている。 線分は行ったり来たりの一次元。 画像などの平面は二次元。 立体は三次元。 四次元は、縦横高さの変化に加えて時間軸をいうことが多い。また、四つ目の次元軸を時間軸ではなく、空間次元と捉え、別世界をいう場合もある。こどもの頃、夏休みのお昼によく、「あなたの知らない世界」なんか見ていた。こわかった~。 霊界も物理学者がしっかりとその存在を実証してくれることと思う。 零次元 点は零次元ということらしい。ブラックホールの底、ビッグバンのプランク時間以前は、それぞれ特異点(ブラックホールの底と宇宙開闢は同じ現象…現象といっていいのか?…)とされていたが、超弦理論、M理論で数理的には、すっきりとしてきたようだ。ホーキングがブラックホールが蒸発する時の熱、熱は振動によるものだから、無限大の圧力下、無限小の空間下で振動する余地がないブラックホールの底の熱はどこから来るのかと、物理学者たちに問いかけたが、25年間、解決されなかった。 1995年、カムラン・バッファが超弦理論を用いて計算したところ、ホーキングが持つ熱量の計算値と一致した。 ブラックホールの底は大きさを持たない特異点ではなく、11次元(M理論:エドワード・ウィッテン)が織りたたまれた弦ということのようだ。 つい先日、銀河の中心にあるブラックホールの写真が撮られた。たいへん興味ぶかい。 情報のカタストロフ

帰ってきた

当時乗っていたVW ビートル1303s むかし、学校の掲示板にあった400ドルいかないぐらいで手に入れた。北カルフォルニアからサンタ・クルスへ引掛した時、後ろが見えないくらい満載にして、サンホゼ過ぎた山の上りで急に力がなくなり、止まった。こんな知り合いがいない場所でトラブルは嫌だなと思った。 ところが、親切な人が後ろから見ていたみたいで、一緒に止まってくれて、オーバーヒートだと言われた。ラジエーターがない空冷エンジンでもあるんだと驚き、無知を晒す。どっから来てどこに行くんだみたいな話をして、一緒にエンジンが冷えるのを待ってくれた。少し登って、後は下りなので、下りで手を振って別れた。わたしの無事を見届けて下さったのだと思う。 ヒッチハイク 向こうの人、結構、親切でよく助けてもらった。ハイウェイの出口でいきなり、ブレーキが抜けて、全く止まらなくなった。道路から外れて内側の芝生に乗り上げて止まった。しばらく待ったら、復活したので、おそらくブレーキを引きずっていたのだろう。Blue lakeにあるBugdoctorというワーゲンの専門店に修理に出した。そこでビートルをポルシェのように運転してはいけないと言われた。帰りのバス路線があるかどうか分からないし、下宿まで10マイル(16km)ぐらいだから、まあ歩いて帰ろうと299号線をとぼとぼと歩いていたら、10分もしないうちにピックアップトラックが止まってくれた。どこまで行くのかと聞かれ、図書館までと言ったら乗せてくれた。いい人だぁ~。 無償修理 今、乗っているCVTが不調だった車、一週間預けて無償で直り帰ってきた。10年10万km近く走っていて、リコールでもないのに無償修理は珍しい事だと思う。フルードも新しくなった。警告灯が点く前からフル加速だと息継ぎする感じだった。スキー場へ行く九十九折の登りで加速しなくなったり、高速で、とんでもない高速から、さらに踏み込んでも加速しなくなったりとやはりCVTが滑っていたんだろう。今は、床まで踏んでもそれなりにスムースに加速していく。よしよし。 私は同じ車種を2台乗り継いだ。前の車(1型)は、20万kmを超えて乗った。 今の車(4型)はもう10万km走ったから、もうあと10万は乗りたい。 車はしっかりメンテして乗りたい。不調なまま、乗っているのはよろしくない。 長距離通勤者の憂鬱 新東名

伯夷・叔齊 (はくい・しゅくせい)

時には餓死すれども、人として一歩前に進むことになる  孔子様がお生まれになる五百~六百年前に伯夷・叔齊と言う聖人と称えられた兄弟がいた。 二人は権力者の悪を諫めて自ら飢え死にした。その真っ直ぐな生き様は、清廉なるが故であったのか愚かであった故だったのだろうか。  伯夷が長男、叔齊は三男。伯夷は、父親から弟の叔齊に位を譲ることを伝えられ、叔齊に王位を継がせようとし、兄、伯夷は国を捨てた。叔齊も位につかずに兄を追った。 二人は周の文王の良い評判を聞き、周へ向かった。 二人が周に到着したときには既に文王は亡くなり、その子の武王が、呂尚(太公望)を軍師に建て、酒池肉林で知られた帝辛(殷の紂王)を滅ぼそうと軍を起こし、殷に向かう途中だった。 二人は道に飛び出し、馬を叩いて武王の馬車を止め、父、文王が亡くなって間もないのに戦をするのが孝なのか、 主君の紂王を討つのが仁なのかと諌めた。兵は二人を殺そうとしたが、呂尚は、義人、正しい人たちとした。   紂王の殷は滅亡し、武王が新王朝の周を立てた。伯夷・叔齊は周の粟を食む事を恥として、周を離れ、首陽山に隠棲して山菜を食べていたが、最後は飢え死にした。  子曰く、伯夷(はくい)・叔齊(しゅくせい)は、舊惡(きうあく)を念(おも)はず。怨(うらみ)、是を用って希(まれ)なり。(公冶長第五[23]) 子曰く、伯夷、叔齊は、昔の悪い事、他の人の過ちを改めたらこれを許し、人から怨(うら)まれることはまれであった。  「旧悪を念わず」とは、殷(いん)の王が亡くなってからは、その旧悪を気にせず、節を守ったことを指すという説もある。 「怨(うらみ)、是をもって希(まれ)なり」とは、人から怨(うらみ)まれるのが希(まれ)、旧悪を念わずの時点で、すでに怨(うらみ)は無い。罪を憎んで人を憎まず。潔白ゆえに狭量になりがちになるが、陥(おちい)ることはなかった。 つまり、その行為を憎むのであって、その人を憎むのではない。  伯夷・叔齋は人の昔の悪行を憎むが、行ったその人は憎まない。だから人への怨(うらみ)は希(まれ)である。そうとも捉えられる。しかし、その悪を憎み、その人を憎まずは、怨(うらみ)、そのものを持たない。存在しない怨に希(まれ)ということはない。 ここは、単純に怨(うらみ)まれない人は優れているということだ。伯夷・叔齊は古の賢人なり。仁を求めて仁を

ちょっと目を離したすきに

こんなことに… なって しまった カブとつるなしインゲン もろこしは順調 トマト、きゅうりも大暴れ

情報のカタストロフ

情報熱力学 では、熱エネルギーと情報は等価であるとし、「 マクスウェルの悪魔 」のパラドックスを実証実験で解決したそうだ。エネルギーと情報が等価であるのならば、物質と精神も等価であるのではと思った。 また、宇宙開闢以前に全宇宙の情報を含み、情報がエネルギーに変換され、ビックバンとなり、現実宇宙で、エントロピー、確率が一に収束すること(それしかないという確率)が本質(エントロピーは0)ということかもしれないと思った。 実体(実態)のない情報そのもの、全宇宙を生み出すポテンシャルが情報ならば、 それは「空無」と呼べるのか? 空無は量ではなく、質なのだろう。 量の変化ではなく、相転移ということなのだろう。 宇宙を生み出す情報は、人間原理以前であると思うが、どのようなものなのか? エドワード・ウィッテンが説く11次元の自由度があるのか? 通常の物質の熱力学では、エントロピーやエネルギーは、常に体積に比例するものだが、 ブラックホールのエントロピーは、体積ではなく、面積に比例し、 ホログラフィックに情報を二次元に蓄え、情報量は、面積に相当するらしい。 逆にいうと、この世の三次元的情報は、ホログラフに過ぎず、 ブラックホールに吸収されることによって、二次元に広がる情報に還元される。 この世の実相は膜、ブレーンであるのか? The information catastrophe ひも理論で探る ブラックホールの謎 - 京都大学 次元の認知  

CONTAX RTS

CONTAX RTS 今は昔、アメリカ加州に、OLYMPUS OM-1を携えて行った。小型で軽量、これでたくさんスナップを撮った。英語が苦手だったので、写真で感じたことを表現したかった。 大学のライブラリーで、地べたに座ってクッションを背に、美術や建築、NATIONAL GEOGRAPHIC誌などを眺めていた。自分の写真と比べると発色が随分と違う。 被写体、構図がどうのというより、きれいな発色の写真が撮りたいと思った。ASAの低いネガフィルムで撮ったり、ポジフィルムを使ったりもした。 それに飽き足らず、 サンフランシスコ まで行って、OLYMPUSを売って、 CONTAX RTSを手に入れた。きれいな青空が撮れた(その写真が見つからない)2,3日いじっていたら、電磁レリーズが切れなくなり、残念ながら返品した。もっと撮ってみたかった。 わたしの友人たちは、わたしが英語ができないことを知っているので、どうやってこういう交渉をしたり、バイクの修理を依頼したり、下宿先に電話を引いたりしているのか不思議がっていた。物が壊れた時は、指さして It,doesn't work. 電話が引きたい時は、AT&Tに出向いて I need telephone. これでたいがい事足りた。  その後も写真は撮っていた。写真を撮りつつ滞在したかったので、写真を専攻できる大学にトランスファーを考え、自分の写真と共にapplication formを送って良い返事がきたけど、あまりに考えなしなので止めた。

答えそのものではなく、そこに至る過程を示すこと

般若 『 生きるための論語 』安冨歩著を読み始めた。その序文をべつの人が書いているが、「般若経典が、人生の有様を見切って悟りに至るための智慧を追求するものであるのに対し、『般若心経』の「一切皆苦」は既に悟りを得て知られた結論に過ぎない。我々が渇望しているのは、世の中を見切る智慧を獲得することであり、問題は、我々が如何にして悟りに至ることが出来るか、である。見切って得られた結論「空」と、見切る能力「般若」との間には、天と地ほどの差が有る。」とおもいしろい。 知 子路に「なんじに之を知るを教えよう、之を知るを知るとし、知らないを知らないとす、是れ「知」るなり。」是知也の「知」は、区別をすることが「知」であるとか、知ではなく、「智」であるといろいろな解釈があるけど、本の作者は、孔子様は知の定義づけをしたかったのではなく、分別することが知に至るためのプロセスと示したのではないかと。 序文にあったように、答えそのものではなく、そこに至る過程を示すこと、論語の大事なところは、こうした学習のダイナミズムにあるとしている。読み進めるのが楽しみだ。  

銭湯へ

  井草湯 東京の共通入浴券の期限が6月30日で切れるので、久々に家内と銭湯に行った。今日は、 井草湯 へ。通っている銭湯の中では新しくてきれいだ。普段は、抜群にきれいに清掃されていて、炭酸泉がすばらしい 川場湯 に行く。前は、天然温泉の 久松湯 によく行っていたが、隣接するコインパーキングの値段が上がったので、なら、 スパジャポ でいいじゃんとなってしまった。たまに、談志さんも通ったという たつの湯 にも行く。ここは、佇まいがすごいし、薪のみで沸かす湯が抜群に熱い。温まる。 富士の湯 は、清潔でいい。子供のころに行った、協和湯や 梅の湯 に雰囲気が似ていて懐かしい。各銭湯のリンクを貼ってあるので、その様子を見て欲しい。 井草湯の変わり湯は、なんと「 完熟マンゴー果汁配合のお風呂 」ほんのりマンゴーの薫りがする。ぬるい炭酸泉もあってリラックスできる。サウナ(別料金)もあるので、水風呂がある。水にじっと浸かる。身体が引き締まる感じだ。 ワークマンプラス 途中で、ワークマンプラスに寄り道、昔は、ほんとうに寅壱の作業着とかつま先に鉄板が入ったような現場の靴しかなかったけど、今や女性モノやキャンプ用品も置いてあった。家内が菜園作業用の軽い長靴や雨具を探した。小さなお店だったので、もう少し商品が見たいと今日は、保留。防水性、軽いもの、涼しいもの、機能性衣料が目についた。 オーケーストア 帰りに井草湯の隣のオーケーストアへ、お米が凄く安かったので購入。ここは、弁当とかホールのピザが安い。警備員さんがよく見ていて、お風呂のセットを車に置いて、そのまま店舗に向かったら、駐車券お取りになりましたかと声をかけてくれる。店員さんもテキパキとしていて、善いお店だと思う。

維摩会 春秋館に出逢う前の話・陸

学生時代、周囲は、いろいろと個性派もいて一緒に良く遊んだ。 卒業までに学生の内1/3は、1年は留年するので、互助会のようなものがあった。 当時、勉強ができる者が、困っている者の家に教えに行くことは普通に行われていた。気に入っていたからとか、好みだからとかではなく、成績が芳しくなかった女子の部屋に勉強を教えに行った時、トイレを詰まらせ、そのまま居着いて結婚してしまった男がいた。 この男、一緒に、女子学生に、「山姥」、「砂かけ」、化粧が濃いから「ぬりかべ」とか、今ならたいへんなことになりそうなあだ名をつけ、燥いでいたのに、その妖怪と呼んでいた娘と結婚した。 まじめな男だったが、彼女の部屋のトイレを詰まらせて、恥ずかしい姿を晒して、吹っ切れたらしい… なにを吹っ切ったのか、しらんけど、一緒にいるうちに情がわいたと言っていた。 周囲の者たちは、眼をさませ~、同情と情は、違うものだぞ~、ホントにいいのか~、とからかっていた。もちろん、今もおしどり夫婦。 別の男は、卒後、友人が借金をして悩んでいたので、相談した時、 借金が返せない? 返そうと思うからいけない。待ってくれと言うしかない。 全く返せなくなったら、貸したあんたも困るだろうから、だから待ってくれと。 人生観が違っていて、目から鱗だった。 周りに愉快な仲間がいたが、 人生観、自分の内面、精神世界の話しをする友人は限られた。 当時、私が痩せこけていて(本当にやせていたので、何度でも書く)狭量だったからかもしれない。 精神世界の話をよくしたのは、ちょっと変わった女学生だった。 見た目(かわいかった方と思います)と中身が大違いで 普段はニコニコとそれなりに愛想もいい方だったが、 いったん事が起こると、「ちょっとあんた、脳味噌腐っているんじゃないの」とぐさりと言い放つ、(わたしは言われていない)かなりの過激派だ。 なぜか教授たちにはかわいがれていて、臆さずによく話しをしていた。 彼女から、このような御縁がつながることになるとは、想像できないことだった。 この人がいたからこそ、いろいろな事に気づかされるきっかけになった。 友であり、恩人だ。 私の友人はユニークだった。 「そんなことしていると悪い女に頭からバリバリと食べられちゃうよ」と言った。 悪い女から頭からバリバリとだって、見てもいないくせに… 実は、頭からバリバリといかれる寸