神との感応
古代は皆、当たり前のように神と感応していたのではないか。天地自然から、直接その声を聞き、感謝し恐れ、畏怖の念をもっていた。
よりよく生きようと、感情、思考、本能から新皮質に向かって、多く使うようになり、欲に引かれるようになり、我を肥大させていった。
銅器、鉄器がつくられ、暮らし向きが豊かになり、武器もでき、争うようになり、人が人を支配するようになった。
人が神にでもなったかのように振る舞い、欲に走り次第に神との感応ができなくなってきた。
支配する者、される者、そこから外れる者、
その中にあっても、感応に特化した者は、巫女、祝と言われ、
髪を逆立て、いわゆる「いかれた人」と言われるようになった…のか。
殷代、日本では殷といわれているが、商のこと。殷は周の人たちが商を貶む意味合いでそう呼んだそうだ。
紀元前500年頃、孔子様が生きておられた時代には、心(という偏や旁の文字)がなかった。
忠や恕の文字は孔子様が生きておられた200年後、戦国時代晩期、晋の鼎や壺に見られる。尤も、まだ発掘されていない可能性もあるが。
興味深いことだと思う。