観音菩薩
観音様は、身近な存在として広く衆生の苦悩をやさしく受け止めてくださる。観音様と口にし、そのお姿を思い浮かべれば、ご神威ととにも温かい眼差しで観ていてくださり、それだけで苦難、不安から救済され、安心を得られ、苦難に立ち向かう力が湧いたように感じます。神仏の世界の菩薩様であって、実在の存在ではないと思われている方が多いことと思います。観音菩薩は、実在した方と言われ、紀元前250年頃、興林国(西域の国)の第三王女、妙善姫としてお生まれになりました。この世の栄華に惑わされず、仏に帰依し、仏道を修めました。
興林国は、新疆ウイグルあたり、シルクロードの一つ西域南道沿いにあり、東南にはヒマラヤ山脈を望む気候温暖な塔里木(タリム)盆地のタクラマカン砂漠の南に位置しておりました。
当時の中国は、周王朝末期の戦国時代、韓、趙、魏、楚、燕、斉、秦の戦国七雄が闊歩し、中央を窺う遊牧民族の匈奴(きょうど)が韓、趙、魏、燕、斉の五国とともに秦を攻撃しましたが、五国側の惨敗に終わりました。
西南に位置するインドはマウリア王朝の時代で、インド亜大陸をほぼ統一したアショーカ王が、自分が冒してきた諸悪業の非を悔い、仏陀の教えに帰依し、仏教を守護し始めたころのことです。
観音様は、観世音菩薩、観自在菩薩と称されます。「観世音菩薩」は、法華経を訳した鳩摩羅什(くまらじゅう:四世紀の訳経僧)が観音経の中で観音様の慈悲、衆生の声を聞き届け、御名前を称すると救済されることを主眼に「観世音菩薩」と訳しました。
「観自在菩薩」は、七世紀の玄奘(げんじょう:西遊記でおなじみの玄奘三蔵法師)は観音様の智慧、智慧とは般若心経の般若(パーリ語のパンニャー、サンスクリット語のプラニンジャー)を主眼に「観自在菩薩」と訳しました。多くの人が耳にしたことがある「般若心経」は、観音様を表す「観自在菩薩」からはじまります。それは観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。観音様が深い智慧に行きついた時に…空について舎利弗(しゃりほつ:釈尊の智慧第一の一番弟子)に説いていきます。
盆地にあって周囲を山に囲まれた興林国は、周囲の地域の国々が互い争っていた時代でしたが、地勢に恵まれ、侵略と無縁な国でした。温和な妙荘王は、民を大切にして国を治めておりました。夫人の宝徳妃は、婦人の規範となるような徳を備え、王を支えておりました。ただ、残念なことにお二人の間には太子はおらず、長女の妙音姫、次女の妙元姫がおりました。
観音様は、母、宝徳妃は、海を割って黄金色に輝く白蓮が出でて、七宝塔に安置されていた珠が昇り陽となり、胎内に入る夢を見られました。
夢を見た後、すぐに王妃は身籠られ、不思議なことに今まで好物であったな肉魚など身体がうけつけなくなってしまいました。王妃が分娩の時は、よき香りが立ち、小鳥たちが集ってまいりました。産声も大きく元気な姫君がお生まれになりました。妙荘王は、太子を望まれていたので、残念に思いましたが、生まれる時に美しい鳥たちが集い、芳香が沸き立つことになにか来歴があるかもしれないと思いました。
お生まれになった姫君は、妙善姫と名付けられ、お誕生を国を挙げてお祝いされました。 祝宴の三日目、初見の儀が行われましたが、女官に懐かれた妙善姫はなぜか泣き止みません。そこに、老翁が姫君に宝物を献上したいと謁見を申し出ました。眼光鋭い堂々とした老翁は、姫君は、慈航尊者の生まれ変わりであると告げました。にわかに信じられない妙荘王は、慈航尊者がなぜ五漏不便な女(女人五障)に生まれ変わるのかと問いました。老翁は、女人に五濁の災いを解脱させ、後の模範となり、広く婦人に菩薩の道を示すために降世したと答えました。ならば、姫が泣き止まぬわけを解くようにと。それは、ご自身の祝宴で多くの生き物の命が損なわれ、食材となったことと、そうなってしまったことにより、ご臨席して下さった者たちにも罪をつくってしまうことが、悲しいと泣かれておられると。そう告げると、老翁は風のように去っていきました。
興林国は、新疆ウイグルあたり、シルクロードの一つ西域南道沿いにあり、東南にはヒマラヤ山脈を望む気候温暖な塔里木(タリム)盆地のタクラマカン砂漠の南に位置しておりました。
当時の中国は、周王朝末期の戦国時代、韓、趙、魏、楚、燕、斉、秦の戦国七雄が闊歩し、中央を窺う遊牧民族の匈奴(きょうど)が韓、趙、魏、燕、斉の五国とともに秦を攻撃しましたが、五国側の惨敗に終わりました。
西南に位置するインドはマウリア王朝の時代で、インド亜大陸をほぼ統一したアショーカ王が、自分が冒してきた諸悪業の非を悔い、仏陀の教えに帰依し、仏教を守護し始めたころのことです。
観音様は、観世音菩薩、観自在菩薩と称されます。「観世音菩薩」は、法華経を訳した鳩摩羅什(くまらじゅう:四世紀の訳経僧)が観音経の中で観音様の慈悲、衆生の声を聞き届け、御名前を称すると救済されることを主眼に「観世音菩薩」と訳しました。
「観自在菩薩」は、七世紀の玄奘(げんじょう:西遊記でおなじみの玄奘三蔵法師)は観音様の智慧、智慧とは般若心経の般若(パーリ語のパンニャー、サンスクリット語のプラニンジャー)を主眼に「観自在菩薩」と訳しました。多くの人が耳にしたことがある「般若心経」は、観音様を表す「観自在菩薩」からはじまります。それは観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。観音様が深い智慧に行きついた時に…空について舎利弗(しゃりほつ:釈尊の智慧第一の一番弟子)に説いていきます。
盆地にあって周囲を山に囲まれた興林国は、周囲の地域の国々が互い争っていた時代でしたが、地勢に恵まれ、侵略と無縁な国でした。温和な妙荘王は、民を大切にして国を治めておりました。夫人の宝徳妃は、婦人の規範となるような徳を備え、王を支えておりました。ただ、残念なことにお二人の間には太子はおらず、長女の妙音姫、次女の妙元姫がおりました。
妙善姫の誕生と来歴
聖人となられる方々には、共通した受胎時の物語があります。お釈迦様誕生時は、母、摩耶夫人は六本の牙を持つ白い象が胎内に入る夢を見られ、ゴータマ・シッダッタ(お釈迦様)を懐妊されました。イエス様は、天使ガブリエルがマリア様の前に現れ、受胎を告げられ、お生まれになられました。観音様は、母、宝徳妃は、海を割って黄金色に輝く白蓮が出でて、七宝塔に安置されていた珠が昇り陽となり、胎内に入る夢を見られました。
夢を見た後、すぐに王妃は身籠られ、不思議なことに今まで好物であったな肉魚など身体がうけつけなくなってしまいました。王妃が分娩の時は、よき香りが立ち、小鳥たちが集ってまいりました。産声も大きく元気な姫君がお生まれになりました。妙荘王は、太子を望まれていたので、残念に思いましたが、生まれる時に美しい鳥たちが集い、芳香が沸き立つことになにか来歴があるかもしれないと思いました。
お生まれになった姫君は、妙善姫と名付けられ、お誕生を国を挙げてお祝いされました。 祝宴の三日目、初見の儀が行われましたが、女官に懐かれた妙善姫はなぜか泣き止みません。そこに、老翁が姫君に宝物を献上したいと謁見を申し出ました。眼光鋭い堂々とした老翁は、姫君は、慈航尊者の生まれ変わりであると告げました。にわかに信じられない妙荘王は、慈航尊者がなぜ五漏不便な女(女人五障)に生まれ変わるのかと問いました。老翁は、女人に五濁の災いを解脱させ、後の模範となり、広く婦人に菩薩の道を示すために降世したと答えました。ならば、姫が泣き止まぬわけを解くようにと。それは、ご自身の祝宴で多くの生き物の命が損なわれ、食材となったことと、そうなってしまったことにより、ご臨席して下さった者たちにも罪をつくってしまうことが、悲しいと泣かれておられると。そう告げると、老翁は風のように去っていきました。
参考:周兆昌 『観音菩薩伝』 東宣出版、2006 ISBN 978-4885880445