子曰く、其の身正しければ、令せずとも行はれ、其の身正しからざれば、令すと雖(いへど)も從はず。(子路第十三[六])
ここは、孔子様が為政者の姿勢を説いた。身を正し、持していれば、命じなくとも臣下、臣民、周囲は適切な行動を執る。正しくなければ、命令しても従わない。
おまえは己の身を修めているのかと問いかける。儒教が正しく伝わった日本では、上に立つ者は、指示が通らぬと、己を省み身を正し修正する。不都合、不幸の原因を他に求めず、自分に求める。品性卑しからぬ人にはそうした傾向がある。己の身が正しければ、人はついてくる。その指示や命令の正誤や妥当性に従うのではないのだ。
徂徠は、国に道が廃れていれば、身を修めていても政治がうまくいくわけがないと異を唱える。確かにその通りだ。国を治めるには、修身教育は欠かせない。欧米のキリスト教文化圏は聖書。イスラム圏はコーラン。神が正しさを示す。仏教圏は仏典。神仏が正しさを示し、絶対なる者に従うのではなく、己と向き合い、己の執着、こだわりを去れ、去った後に智慧、慈悲が現れると説く。異質である。
儒教は、四書五経、「論語」「大学」「中庸」「孟子」の四書と、「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」の五経。克己復礼、己に克ちて礼に復(かえ)る。孔子様が、一番弟子の顔回に仁を問われて、「己に克ちて禮に復る」ことが、仁であると答えた。先ず、一日からでも、皆が己に克ちて礼を行えば、天下は仁道に帰すと仰った。仁、他人の心を吾が心として、真(まこと)をもって接することは、自らの意志で行うこと、他に委ねることではないと説く。君子とは自らの意志をもって行動する者とも云える。日本に於いて、儒教的な神と云ったら、他人の振りみて吾が振り直す、「他人様の目」がそれに該当するのかもしれない。他人様が必ずしも正しいといえないが、大勢に従おうとする。消極的に和を以って尊しとする姿なのかもしれない。
季康子、政(まつりごと)を孔子に問う。孔子対えて曰く、政(せい)なる者は正(せい)なり。子(し)、帥(ひき)いるに正を以てすれば、孰(たれ)か敢(あ)えて正しからざらん。(顏淵第十二 )
魯の大夫の季康子が、政治の要を孔子様に問うた。答えて孔子様は、政の本義は正である。(政は正しく攵(う)つ。打って正す。)あなたが正道を以て臣民の先頭に立って行かれるなら、人民は誰一人として正しくならないものはいない。
子曰く、苟(いやし)くも其の身を正しくせば、政に従うに於いて何か有らん。其の身を正すこと能(あた)わずんば、人を正すを如何(いかん)せん。(子路第十三)
身を正しく持していけるのなら、政治を行うに何ら問題がない。身を正せないのならば、人様を正すことなどできない。
斉の景公、政を孔子に問う。孔子対えて曰く君、君たり、臣、臣たり。父、父たり、子、子たり。公曰く、善いかな。信(まこと)に如し君、君たらず、臣、臣たらず、父、父たらず、子、子たらずんば、粟(ぞく)有りと雖も、吾(われ)得(え)て諸(これ)を食(くら)わんや。(顏淵第十二)
齊の景公が、政治の要を孔子様に問うた。答えて孔子様は、主君は主君らしく、臣下は臣下らしく、父は父らしく、子は子としてその名に相応しい名分を全うすることが政治の要。景公は、その通りだ。主君が主君らしくなく、臣下、父、子が子らしくなければ、安心して食事もできないと言った。景公は、政治のことよりも、自分の口に入るものを案じていた。その心を映すかのように、齊は、乱れていった。