般若
『生きるための論語』安冨歩著を読み始めた。その序文をべつの人が書いているが、「般若経典が、人生の有様を見切って悟りに至るための智慧を追求するものであるのに対し、『般若心経』の「一切皆苦」は既に悟りを得て知られた結論に過ぎない。我々が渇望しているのは、世の中を見切る智慧を獲得することであり、問題は、我々が如何にして悟りに至ることが出来るか、である。見切って得られた結論「空」と、見切る能力「般若」との間には、天と地ほどの差が有る。」とおもいしろい。知
子路に「なんじに之を知るを教えよう、之を知るを知るとし、知らないを知らないとす、是れ「知」るなり。」是知也の「知」は、区別をすることが「知」であるとか、知ではなく、「智」であるといろいろな解釈があるけど、本の作者は、孔子様は知の定義づけをしたかったのではなく、分別することが知に至るためのプロセスと示したのではないかと。序文にあったように、答えそのものではなく、そこに至る過程を示すこと、論語の大事なところは、こうした学習のダイナミズムにあるとしている。読み進めるのが楽しみだ。