詩に云ふ、切磋琢磨は、切磋琢磨のことか
子貢曰く、貧しくして諂(へつら)ふこと無く、富みて驕ること無きは、何如。子曰く、可なり。未だ貧しくして樂しみ、富みて禮を好む者には若かざるなり。子貢曰く、詩に云ふ、切(せっ)するが如く、磋(さ)するが如く、琢(たく)するが如く、磨(す)るが如しとは、其れ斯の謂か。子曰く、賜(し)や、始めて與(とも)に詩を言う可きのみ。諸れに往(おう)を告つげて、來(らい)を知る者なり。 学而第一[十五]
孔子様は、始めて詩経についてともに語れるようになったな。一つ「往」をいうと、次「来」をきちんと返す、知る者となったな。
諸橋轍次さん
朱子
伊藤仁斎氏
「『詩経』の詩を自由に解釈することこそ」、と具体的な説明はない。
荻生徂徠氏
貝塚茂樹さん
〈切するが如く・・・〉この詩は『詩経』衛(えい)風の淇奥(きいく)篇の一句である。淇という川の曲がりくねって奥まった、こんもりとしげった緑の竹藪のところに、目にもあざやかに一人の貴族が立っている。この貴族は、衛の名君武公を象徴するとされ、その人格をたたえたのがこの句である。骨をけずって骨器をつくるのが「切」、象牙を細工するのが「磋」、玉をこするのが「琢」、石をみがくのが「磨」である。武公が刻苦して人格の修養につとめているさまをうたったと解釈されている。子貢はこの一句をひき出して、富んでいながらしかも礼を好む、いやがうえにも自己の向上をはかるものの境地が、ここに表現されていると解したのであろう。
宇野哲人さん
子貢のすでに出来ている所を許して、まだ出来ていない所を勉るようにさせたのだと朱子はいってる。また骨や飢も切らなければ磋くことは出来ないし、玉や石も琢なければ磨ぐことはできないのであるから、学者は小成に安んじて道の 極致に至ることを求めなくてはならないけれども、またいたずらに高遠に騖(は)せて、自己に切実な病所を知らないようなことがあってはならないといっている。
吉田賢抗さん
如切如瑳、如琢如磨・・・刀で切り、鑢(やすり)で磋(みが)き、鑿(のみ)でくだきとり、砥石や金剛石で磨(と)いで、段々と精巧さを加えること。骨・象牙・玉・石などの細工をするに、粗から精へと方法を変えること。朱注には「骨角を治むる者は既に之を切りまた之を磋す。玉石を治むる者は、既に之を琢してまた之を磨く。之を治むること巳に精しくして益々其の精ならんことを求むなり」とある。朱子の注のように切磋と琢磨と分けて解する説と、切磋琢磨を一連の仕上げ工程と見る説(爾雅)とあるが、この文意では爾雅の説に従った方がよい。
吉川幸次郎さん
「詩経」の古い注釈である「毛伝(もうでん)」を見ると、骨に対する加工が切、象牙に対する加工が磋、玉に対する加工が琢、石に対する加工が磨となっている。もとの詩の意味は、道徳ある君子は、工人が、対象に対する加工を怠らぬように、つねに道徳の修練を怠らない、ということであるが、ここの子貢は、少し意味をずらせて、貧乏な者が、卑屈でないだけでなく、生活を楽しむという条件を加えること、また富める者が、傲慢でないばかりでなく、文化愛好という条件を加えること、それは、ほんらい美しい材料である獣骨、象牙、玉、石を、いやが上にも美しく磨き立てるのと同じだとして、二句を引いたのである。このように、詩の本来の意味と考えられるものから、少しずつずらして、新しい意味をもたせること、つまりいわゆる「断章取義」は、むしろ、詩の、真実の理解として、称揚されたようである。何となれば、それは、詩の句に、新しい生命を加え与えることであったから。
安田登さん(能楽師)
骨、象牙、玉(ぎょく)、石を加工するには、それぞれ合った方法がある。その方法を間違えると素材をダメにしてしまう。真珠をダイヤモンドで磨くと下手すると真珠を壊してしまう。切磋琢磨とは、素材にあった方法で磨くこと。