なにか、原風景として柿の木に柿の実が一つだけぶるさがって(←関東地方の方言:ぶらさがって)いる。
柿を取る時に一つだけを残すことを「木守り(きまもり、きもり)」というそうだ。
なりものは、全部とってしまわずに、一つだけ残す。そうしないと来年ならなくなる。無花果や桃もそうするようだ。
なりものは、全部とってしまわずに、一つだけ残す。そうしないと来年ならなくなる。無花果や桃もそうするようだ。
「木まぶりとは、果の落ちざるものを言う。木守の義なり」と江戸時代の国学者谷川士清は書く(和訓栞)。然し偶然に取残った果実や、取りにくいので残ってしまった果のことではない。特に一個を木に残すこと、またその果の称である。成り物の木には、そういう習わしが、昔からある。」
『柿の信仰と伝承:柿の民俗誌(習俗双書第14集)』(永野忠一/著 習俗同攻会 1994)
木霊に対してのお供えもののような感覚なのだろうか。
庭の木を伐採する時も、神棚にお供物をして、ご報告してから行う。
祖父の家の庭にも柿の木があったが、それは、自然にまかせていたように思う。
この時期なると祖父の家に遊びに行って、庭にあった茗荷を蚊に刺されながらたくさん取ったのを思い出す。
うちの庭にも茗荷はあるが、やはり蚊がでるので、家内も及び腰だ。麺類を作る時には、装備して取りにいく。意外にもちゃんと香り立つ茗荷だ。
木守、感謝の気持ちをもって、菜園の野菜たちにも接していこう。