衛霊公第十五[二三]
子貢問曰。有一言而可以終身行之者乎。子曰。其恕乎。己所不欲。勿施於人。
子貢問ひて曰く、一言(いちげん)にして以(もつ)て身を終(を)ふるまで之(これ)を行(おこな)ふ可(べ)き者(もの)有(あ)りや。子曰く、其(そ)れ恕(じょ)か。己(おのれ)の欲(ほつ)せざる所(ところ)、人(ひと)に施(ほどこ)すこと勿(な)かれ。
子貢が、ただ一言で、しかも一生涯、身に行ってさしつかえのない名言がありましょうか、と質問した。これに対して孔子は、ぞれは恕であろうか。その恕というのは、自分が人からされたくないと思うことを、人にもしかけないということである、と教えた。(『論語の講義』諸橋轍次)
この章は、弟子の子貢が孔子様に沢山のことを教わっているにも関わらず、一つにまとめると一番大事なところをは何ですかと、あっけらかんとお伺いしている。
子貢は、弁舌に優れ衛、魯でその外交手腕を発揮する。また、司馬遷の『史記』によれば子貢は魯や斉の宰相を歴任したともされる。さらに「貨殖列伝」にその名を連ねるほど商才に恵まれ、孔子門下で最も富んだ。
対機説法をされたと考えると子貢に向けては、恕であり、「己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ」と説かれたのか。
人の身の上や心情についての察し。同情すること。また、その気持。思いやり。(日本国語大辞典)
思いやり。同情。(大辞泉)
わたしが好きな『新字源』によると、なりたちとして、形声。心と音符如(ゆるやかの意)とから成り、心ゆるやかに相手をゆるす、ひいて、思いやる意を表す。
一説に、会意形声で、わが心の如くする意という。
恕は、相手の心の如くすることで、「己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ」は、相手の心ではなく、自分の心が欲しないことは、人に施さないということ。
相手の心の欲するところ(心は欲するのだろうか?)を施すのではなく、「己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ」なのだ。こうしましょうという勧戒ではなく、こうするなという禁戒(仏教じゃないけど)なんだ。
相手の心の如くすることは、自分の心が欲しないことはしないこと、つまり(で括っていのかなぁ)、自他の別を離れることなのか?
さしずめ、わたしなら、人に「この役立たず」と言わない、思わないことか。