運転者をなんとなくボーとみていると、あの人の視点からだとこの世界はどう見えるのだろうかと考えた。相手の視野に映る自分はどのようなのだろうか。
その人それぞれの人生があり、私が見えているものと同じように、また、まったく違って見えているものもあるのだろうと思った。
衛霊公第十五[二三]
子貢問曰。有一言而可以終身行之者乎。子曰。其恕乎。己所不欲。勿施於人。
子貢問ひて曰く、一言(いちげん)にして以(もつ)て身を終(を)ふるまで之(これ)を行(おこな)ふ可(べ)き者(もの)有(あ)りや。子曰く、其(そ)れ恕(じょ)か。己(おのれ)の欲(ほつ)せざる所(ところ)、人(ひと)に施(ほどこ)すこと勿(な)かれ。
子貢が、ただ一言で、しかも一生涯、身に行ってさしつかえのない名言がありましょうか、と質問した。これに対して孔子は、ぞれは恕であろうか。その恕というのは、自分が人からされたくないと思うことを、人にもしかけないということである、と教えた。
孔子様の「恕」は、思いやり、愛情みたいに捉えられているが、相手の如く、自分の如く、自他の別がなくなることだと思う。
ちなみに、孔子様の時代には、「恕」とい漢字はなく、「如」と書かれていたという。
自他の別がない世界はどのように映るのだろうか?
相手の立場、心情となる、エンパシーを越えた向こう側なのか。