顏淵問仁。子曰、克己復禮爲仁。一日克己復禮、天下歸仁焉。爲仁由己。而由人乎哉。顏淵曰、請問其目。子曰、非禮勿視。非禮勿聽。非禮勿言。非禮勿動。顏淵曰、回雖不敏、請事斯語矣。
顔淵、仁を問ふ。子曰く、己に克ちて禮に復(かえ)るを仁と爲す。一日己に克ちて禮に復らば、天下仁に歸(き)せん。仁を爲すは己に由る。人に由らんや。
顔淵曰く、其の目(もく)を請ひ問ふ。子曰く、禮に非ざれば視ること勿かれ。禮に非ざれば聽くこと勿かれ。禮に非ざれば言ふこと勿かれ。禮に非ざれば動くこと勿かれ。顔淵曰く、回、不敏なりと雖も、請ふ、斯の語を事(こと)とせん。
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己に克ちて禮に復(かえ)るを仁と爲す。
仁とは、己を超えた先にある平伏す憶いに顕れるものなのか?
己とは、自他の分別を超えたものなのか?
己の語源を見ると、土器の目印、呼ばれて人が立つ姿説、紐の端説、台説などあってよく分からなかった。「斯の語を事とせん」とあるから、論語よりも前のなのだろう。台の文字の初出(未発掘なのかもしれないが)、春秋晩期の金文からだから、違うのだろうか?