維摩会 春秋館では、リモートで気功法と座法を教えて下さる。
家に居て、簡単に受法できる。有難いことだ。
気功法は、基本的なことからはじまり、コアなところまで御指導頂ける。そしてとても心身が癒やされる。
もう、初心者ではないはずなのだが、同じをことを教わっても毎回新鮮に感じる。
飽くることはない。感覚が更新されていく。(もの忘れ?ではないですよ)
家に居て、簡単に受法できる。有難いことだ。
気功法は、基本的なことからはじまり、コアなところまで御指導頂ける。そしてとても心身が癒やされる。
もう、初心者ではないはずなのだが、同じをことを教わっても毎回新鮮に感じる。
飽くることはない。感覚が更新されていく。(もの忘れ?ではないですよ)
座法もそうだ。只、座る。しかし、毎度のように新たな発見がある。
結論と過程
釈尊の御教えの基本は何だったろうか。
釈尊の御言葉は、総て正語であり、真理の御言葉。
釈尊は、既に結論は述べておられ、それを僧が経典にしたのではないか。
釈尊は、既に結論は述べておられ、それを僧が経典にしたのではないか。
第一結集までは、迦葉尊者ら十大弟子、五百羅漢で話合われたそうだ。
その後の口伝や記述言語、記載、編集によるバイアスが気になるが、
一切皆苦、ならば答えは、総ては苦と知ることだと思う。
その答えに至るには、四苦八苦し、四聖諦、八正道、因縁果を知り、正しく生きなさい(正しくないを去るか)ということなのだろうか。
さて、表面的な苦は実感しているが、その由来は分からない。
一切皆苦、ならば答えは、総ては苦と知ることだと思う。
その答えに至るには、四苦八苦し、四聖諦、八正道、因縁果を知り、正しく生きなさい(正しくないを去るか)ということなのだろうか。
さて、表面的な苦は実感しているが、その由来は分からない。
正しいこと、正しくないとは何?
凡夫の私には、これが結論ですと示されても、答えに至る過程が欠落している。
凡夫の私には、これが結論ですと示されても、答えに至る過程が欠落している。
智慧がない。
一切皆空。総てが空って、どういうことなのか?
空を空じて…とか利いた風なバカなことはしゃべれる。
とどのつまりは、涅槃寂静なのか?
釈尊の結論、その答えに至るためには、智慧を得て、慈悲の実践が必要なのだろうか。
しかし、どうやって?
そもそも、真理の御言葉は、結論なのか。
只、真理であって、結論ではないのではないか。
智慧、慈悲とは何か。それは言葉の定義を知ることで得られることではないことは確かなことだと思う。
智慧、慈悲とは何か。それは言葉の定義を知ることで得られることではないことは確かなことだと思う。
どのように智慧、慈悲、義を獲得していけばよいのか。
凡夫の私は、維摩会 春秋館で御指導仰ぎたいと切に願う。
凡夫の私は、維摩会 春秋館で御指導仰ぎたいと切に願う。