昨日、愚かと愚かでないことを区別することは、愚かなことかもしれないと書いた。
先日、テレビでお坊さんが、愚かで頭が悪い仏弟子の話をしていた。その弟子は、教えも理解できず、句の一つも覚えられず、自分の名前すら忘れてしまうほど愚かであったので、愚路と呼ばれていた。
釈尊は、その弟子に「自分を愚かだと知っている者は愚かではない。自分を賢いと思い上がっている者こそ、本当の愚か者である」と説き、彼に箒を与えて、「払いたまえ、浄めたまえ」と唱えて、掃除をするように指導された。
テレビのお坊さんは、その弟子は、ここは汚れている。ここはきれいと分別している。自分勝手に分別していることに気づき、悟りを得た。分別を離れよという話だった。
凡夫・愚者は正しさを得られるのか?
十六羅漢のお一人、周利槃特(しゅり・はんどく、チューダ・パンタカ)のお話と思うが、落とすべき汚れとは、貪、瞋、痴の三毒という心の汚れだと悟り、煩悩を滅して、阿羅漢果を得たとされている。この世は虚仮であっても、現実的に何が正しいことなのか判断して行動できることが「正しいこと」だと思っていた。
だが、凡夫・愚者は、「何が正しいことなのか判断」できない。自分が正しいとしてしまう。正しい判断をしたと思い込む。
だが、凡夫・愚者は、「何が正しいことなのか判断」できない。自分が正しいとしてしまう。正しい判断をしたと思い込む。
ほんとうの、ありのままの「正しいこと」が見えていない=存在を認知できない、認知できないことを「無いこと」と思い込むからだと思う。自分の狭い認識世界が絶対、我を絶対的に捉えているからだと思う。
わたしは、たとえ正しい判断ができないとしても、その判断に愛あれば、救いはあると教わっている。自分の行い、判断に、そこに愛はあるんか、と問うことにしている。
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凡夫の分別は、主観と事物との主客相対の上に成り立ち、対象を区別し分析するから、事実のありのままの姿の認識ではなく、主観によって組み立てられた差別相対の認識に過ぎないため、妄分別(もうふんべつ)である。それによって得られる智慧である分別智(ふんべつち)も一面的な智慧でしかない。それに対し、主客の対立を超えた真理を見る智慧を無分別智(むふんべつち)という。俗には無分別は「思慮の足りないこと」の意義で用いられるが、仏教では本来と反対の用法である。
-- Wikipedia
これでいいだろうと、いくらブーツストラップを引き上げても自分が宙に浮くことはない。
なら、思考で判断せずに、感覚で感じたことなのか、もっと深く本能に根ざすものなのか。
妄分別の内にあっては、気づくとこはできないのだろう。
なら凡夫・愚者はどうするのか
釈尊が言われたことに素直に従い、只管「払いたまえ、浄めたまえ」と唱えて、掃除をする。
大海撈針、大海の砂の中の針を拾うが如く、明師に出逢い、教えを乞い、従うことだと思う。