自分優先の人生
維摩会 春秋館と出逢わなかったらどんな人生だったのだろうか?
いろいろなことがあったけど、もっと欲にひかれ、理屈に走り、自分の都合ばかりだっただろうな。自分を省みるなんて、考えもしなかっただろうな。
失敗して、原因を他人や環境のせいにしたり、少しは原因を考えたりしただろうけども、その時の周囲のひとの気持ちや、心の奥の成果を出してほめらたい憶いとか、湿った嫉妬心とかに気づこうともしなかっただろうな。
いろいろなことがあったけど、もっと欲にひかれ、理屈に走り、自分の都合ばかりだっただろうな。自分を省みるなんて、考えもしなかっただろうな。
失敗して、原因を他人や環境のせいにしたり、少しは原因を考えたりしただろうけども、その時の周囲のひとの気持ちや、心の奥の成果を出してほめらたい憶いとか、湿った嫉妬心とかに気づこうともしなかっただろうな。
観て気づく
そこを観よ!と親身に言ってくれたのが維摩会 春秋館だった。それまでは、自分の生き方に多少の疑問はもっただろうが、人生そんなものだよと達観した風を装っていったかな。 小難い理屈をこねて人を煙にまいて、やっぱっり私が正しいのだと自己主張をしていただろうな。ちいせぇ~なぁ~。
他人のことは、隠したつもりのことまで見えても、自分のことは見えないというか見る習慣がないというか見ないですよね。気が付きたくもない。
気が付かないことは変えらない。そんなあたりまえのことも腑に落ちるまで教えてもらった。
繰り返し
そんなことしながらも、いや、しないから、万々年も人は(生命は)同じように生まれ、生き、死んでいくことを繰り返す。生きるとは、何? その意味とは?人知れず生きる深海魚の一生
小中学生な頃、それはいったいどういうことなんだと考えたりしたことがあった。『クストーの海底世界』シリーズなんて見ながら、サーチライトが灯り、マリンスノーが舞う超~静かな漆黒の深海に、人知れず生きる深海魚の一生ってどんな意味があるのだろうか?
目が退化し(退化ではなく、廃用か)光を感ずることがなく、生きるってどうことだろう?
異型の魚を凝視しているようで、意識は違うところを彷徨っていた。
出ない答え
出ない答えを手足が冷たくなるまで探っていた。だれにも気づかれない存在に存在価値がない。
存在価値がないのに存在していることはありえない。
いったい、この深海魚の存在意義はなんなんだろうか。
何光年も離れた惑星の石ころにどんな意味があるというのだ。
分からない。どう考えていいのか分からない。血の気が引いていく。
いや、底知れない恐怖心に気づかずにフリーズしていたんだろうな。
いや、底知れない恐怖心に気づかずにフリーズしていたんだろうな。